ネヘミヤ2:1−18/Ⅰコリント12:3−13/ヨハネ11:17−27/詩編136:1−9
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」」
(ヨハネ11:25-26)
エズラ記ネヘミヤ記はバビロン捕囚から帰ってきた民がエルサレムに神殿を再建するという一大事業を興し、完成するまでのことが書かれていて、歴代誌を補完する続編という意味合いをもっています。エズラは祭司として捕囚後に帰還する人々の代表でしたし、ネヘミヤは総督として帰還後のイスラエルを統率する地位にありました。ネヘミヤが一番最初に城壁の修復に取りかかったことがわかります。捕囚から解放されるイスラエルが国家プロジェクトとしてエルサレム修復・神殿再建を行い、結束を図り、再び自立した民族国家として歩んで行く道のりです。当然のことながらエズラ記ネヘミヤ記は民族主義・国粋主義が色濃く前面に登場します。
この国家事業に対してサマリアは妨害を繰り返すわけですが、それはいわば当然のことでした。なぜなら、バビロン捕囚後のユダ州は、昔の北王国の首都サマリア州に含まれていたからです。ところがバビロンから帰還した者たちはサマリアを無視してユダの独自性や優位性を主張した。様々な紆余曲折を経て、最終的にサマリアの手を一切借りることなく神殿再建・城壁修復が完了します。そして「モーセ五書」をユダ州を国家とする権威の源・証拠としたのです。
外国、わけてもサマリアの干渉を徹底的に排除するために、再生ユダ王国は外国人女性との結婚を禁止し、強制的に離婚させるかあるいは民族から追放するかという現代的には許しがたい強権が発動されました。
7・8年前ニュースでウィーンフィルのことが取り上げられていました。楽団が第二次大戦中にドイツ民族優位を主張するナチスに迎合して、楽団員のユダヤ人を排除し、あるいはユダヤ人と結婚している楽団員には、離婚か退団かを迫ったという事実が公表されたのでした。楽団の歴史のいわば負の部分もしっかりと公表してこの先の歩むべき道を考えようというニュースです。
ユダヤ教が今日のような姿で歩み始めるまさにその時も、状況は同じだったのかもしれません。当然その影響をキリスト教も受けている。こうして、わたしたち現代のクリスチャンの中にもなんとなく「南王国ユダ」だけが正当なイスラエルで「北王国イスラエル」は堕落した、ヤハウェ信仰を捨てた民族国家だという価値観が完成します。歴代誌はその続編たるエズラ記ネヘミヤ記も含めてそのために書かれた民族史で、客観的に見てそのもくろみは大成功を収めているでしょう。
ところが、イエスが復活し、そして約束された別の助け主が送られるということになって、その別の助け主として送られるのが聖霊であったということが明らかになった時、パウロの言う「霊的な賜物」(Ⅰコリント12:1)は、歴代誌的歴史観に大きな風穴を開けているのではないかとわたしには思えます。
「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」(同12:11)と言われています。一つの霊が分け与えられることによって、一つひとつに様々な働きが委ねられ、結果としてそれが全体の益となるのだと言うのです。はじめからたった一つであることが求められる全体主義とは趣が異なります。はじめから統一ではなく、結果としての一致です。この違いはとても大きいのではないか。
わたしたちは「一致団結」が好きです。そしてなによりも先ずそれが求められたりもします。同じユニホームを着る、同じ制服を着ることがチームワークの第一歩。それが同じ価値観を共有していることのしるし。互いのことを本当に知るのは後々で充分でしょう。
今日的な話題で考えれば「選択的夫婦別姓」に反対している国会議員の方々の理屈が全くこれと同じだと思えてきます。夫婦が別の姓を名乗ることで家族の一体感が壊されるという主張。わたしはこれを聞く度に、姓が異なることで壊れる家族は、もともと壊れている家族だとしか思えません。姓がひとつであることだけが家族のアイデンティティなのでしょうかねぇ。
人間全体で考えたら本来は逆でしょう。あなたとわたしは違っている。見方も考え方も感じ方も。でも、それを上手に組み合わせれば、もしかしたらより大きな目当てに向かって進んでいける。じゃ、お互い理解したことの証しで同じバッジをつけよう、同じ服を着よう、あるいは同じ姓を名乗ろう。そんな順序で本来はよいのではないでしょうか。まして「選択的」というわけですから。
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」」(ヨハネ11:25−26)。このイエスのことばは随分と力のある言葉です。この力ある言葉はわたしたちを羊と山羊とにわけるためのことばでしょうか。この事を信じないヤツは出て行け、とか、この事が信じられないならあなたは救われないとかの脅し文句を、この場面でイエスがマルタに突きつけた。そしてマルタはその脅しに震えて「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(同27)と言った。愛する弟の死という悲しみの現実に直面する女性を脅すイエスでしょうか。
「信じるか」というこの問いは、「このような絶望の極みにあって、なおあなたは希望を持つことが出来るよ」という意味なのではないか。絶望の極みにある人間にも、それでも希望があるということに気づかせてくださる、「別の道があるよ」と指し示してくださる、それがイエスのことばだったのではないか。
その「別の道」にこそ「新しい命」と「新しい希望」がある。イエスの語るその世界をわたしもまた信じたいのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。どれだけ絶望の極みにあっても、その時神さま、あなたがわたしのために希望を用意していてくださることを信じることが出来ますように。一人ひとりに大きな違いがあっても一つひとつに様々な働きが委ねられ、結果としてそれが全体の益となる。そんなあなたのご計画を理解することが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。