列王上17:17−24/コロサイ3:1−11/マタイ12:38−42/詩編116:1−14
「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」(マタイ12:40)
旧約聖書にエリヤという預言者がいます。この人は北イスラエルの王アハブがシドン人の妻イゼベルの崇拝するバアル・アシェラの偶像崇拝を徹底的に批判した人で、そのため王から命を狙われます。3年の間雨が降らず、北イスラエルは凶作に悩まされますが、エリヤはケリテ川のほとりでカラスに養われます。その川の水も干上がるとシドンのサレプタに導かれ、そこに住むひとりのやもめによって養われるのです。やもめにはひとり息子がいて、最後の油と最後の麦粉でパンを作り、それをためたらもう死を待つしかないという極限状態の親子でした。その母にむかってエリヤは「まずその粉でわたしのためにパンを作れ」と言うのです。かなり図々しい!ところがこの家にいる間どういうわけか瓶の油も壺の中の粉も尽きることがなかったというのです。彼女は驚いたでしょうね。次第にエリヤを尊敬し始めたかも知れません。
ところがこのやもめのひとり息子が病気になって死んでしまう。不思議な力を持ったエリヤを信じ始めていたやもめの思いは一変します。「あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」(列王上17:18)。エリヤは主に祈り、子どもの上に三度身を重ねると、その子は息を吹き返します。するとやもめはこう言います。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」(同24)。
このやもめのわかりやすい変化はどうでしょう。粉も油も最後だった。だからそれを食べて死を待とうと思ったのに、それでまずわたしのために、と図々しいことを言うエリヤ。ところが渋々言うとおりにしたら粉も油もなくならなかった。彼がいてくれさえすれば食べるのに困らないとなれば、そりゃおもてなしも変わります。ところがひとり息子が死ぬと、それはエリヤのせいだと言い出す。そしてエリヤが祈って息子が息を吹き返せば「今わかった、あなたはまことに神の人だ」と。手のひらが何度もひっくり返るのです。でも嗤えません。わたしも同じ。
マタイ福音書に書かれているイエスの処刑の場面には、こんな言葉が記されています。「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」(マタイ27:39-44)。あるいは、思い返せばイエスが洗礼を受けたときに、誘惑する者はこんなことを言っていました。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(4:3)「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」(4:6)。
「神の子なら」「神の御心ならば」「『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」。群衆も誘惑する者も、イエスに対して「神の子なら」「神の御心ならば」と連呼します。「神の子なら」「神の御心ならば」わたしたちが驚くようなしるしを、証拠を見せられるだろう、ということでしょう。誘惑する者は聖書のに「〜と書いてある」と言ってイエスに迫っている。サレプタのやもめが、しるしを見ている間はエリヤが「神の人」だと安心して信じられていたのと全く同じでしょう。その安心出来るしるしを見せられない以上、イエスよあなたはニセモノだ、と。
しかし、代々のキリスト者は、イエスのその徹底した弱さの中に神の御心を見たのです。自らの手にしてきた、あるいは培ってきた常識をかなぐり捨てて、イエスの徹底した弱さの中にこそ、神の救いを見たのです。代々のキリスト者たちは誰も自分自身の力でそれを身に付けたのではないのです。みんな戸惑ったし疑った。ときには神の御心を信じるよりこの世の権力を握ることでそれをより確かにしようとしてきた。その意味ではわたしたち人間の考えることなんてたかが知れている。
でも、そんなすべての常識をかなぐり捨てたときに、与えられる着物がある。パウロの言うところの「造り主の姿に倣う新しい人」(コロサイ3:10)とはそういうモノのことだと思います。人間の学びだとか節制だとか磨かれた信仰によってのみ手にすることが出来るようなモノではなく、自分たちが後生大事に培ってきたモノをすべてかなぐり捨てたときに初めて与えられる神の真実こそがわたしたちの身に付けるべき「真の知識」(コロサイ3:10)なのではないか。そんなことを思うのです。
祈ります。
すべての者の救い主イエスさま。あなたの歩みに、あなたの生き様に従う者として招かれていることを、畏れを持って受け止めます。自分が培ってきたものを手放す勇気がありません。しかしそれを差し出すことができる者へと変えてください。そうやってわたしたちが捧げるそれぞれの賜物を、あなたの御用に用いてくださいますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。