5月の教会総会に向けて、2024年度の振り返り作業が始まっている。5月4日の執事会で報告書の原案が審議されるので、実はけっこう忙しいし、いろいろと迫られてもいるのだ。
もう教会担任の牧師として長いこと働いているのだが、何年やっていても、教会という組織と、活動計画とその総括という一連の総会準備のことがしっくりこない感覚から抜けられない。
例えば製造業の会社だと仮定した場合、製品を何個製造するかを計画し、その計画を達成出来たかどうかの結果からその原因を総括し、次の年度にはその総括をもとにして製造計画を練り直すという一連の作業は実にしっくりくるし、それぞれの意味が良くわかる。だがキリスト教会はそもそもそういう組織ではない。
そもそも客観的評価基準がない。受洗者を製品に見立てるなんてもってのほかだし、礼拝出席者数の増減とか、教会会計の剰余金の増減とかがそもそも評価基準だとも思えない。
さらにちょっと信仰的を装って語れば、神の救いの計画はもちろん人間の手を必要とするだろうが、そのベクトルは絶対に逆にはならない。つまり、人間の手の業によって神の救いの計画が変化するなどあり得ない。人間にとっては神の御心や救いの計画はいつも傾聴する対象であって、自分の業によって神の国のを到来させよう、早めようなどと考えること自体が非信仰的だ。
であればキリスト教会の総会は、神の恵みを数え挙げ、その恵みがわたしたちの教会にも及んでいたことを改めて確認し、わたしたちの小さな業を神の救いのご計画の啓示の一端として、記録に留めてゆくことに尽きるのではないだろうか。だから教会総会は感謝と賛美で始まって、感謝と賛美で終わる。そしてしっかり記録を残す。それで充分なのだよな。
なんてことを心の中で、騒ぎ立つ波のように吠え猛りながら、しかし淡々と総会資料作りに励んでいるのだ。記録を残すために。気がつくと今週も金曜日が終わろうとしている(汗)。
2025
27Apr
四谷快談 No.213 心の声(あくまでも/外には聞こえないように)
