イザヤ12:1−6/黙示録1:12−18/ヨハネ20:1−18/詩編30:1−6
「イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。」(ヨハネ20:16)
イエスに望みをかけてきた人たちでさえ、「これで終わった」と誰もが思った金曜日。イエスは神にも見放された孤独の中で、十字架に磔にされて殺されました。もはやこの現実から誰も逃れられないし抗えない。悲しみに打ち震えながら、何もしてはならない安息日を迎えたのでした。
聖書はこの安息日のことを何も書いていません。イエスが十字架で息を引き取られたのを見守った人たちは、一体この土曜日を何をして過ごしていたのか。あるいはゲッセマネでイエスを見捨てた弟子たちはこの日何をしていたのか。
今朝はヨハネ福音書を読みました。ヨハネ福音書はイエスが捕らえられた場所をゲッセマネではなく「キドロンの谷の向こう」(ヨハネ18:1)と記しています。そこにイスカリオテのユダに導かれた一隊の兵士がやって来てイエスを捕らえます。ヨハネ福音書によれば弟子たちはイエスを見捨てて逃げることはありません。その代わり「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。」(10)と書いてあります。
少なくともペトロはイエスが捕まることに抵抗したのです。おそらくこの時点ではイエスと共に死ぬことだって厭わない覚悟があったに違いありません。さらに「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入った」(同15)とあります。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」(8)とイエスが言ったにもかかわらず、ペトロともう一人は、捕らえられたイエスに従い続け、大祭司の庭に入り込む。しかしそこで、例のペトロの否認という事態が起こるのです。ひょっとしたらペトロ自身にとっても、ここでイエスを知らないと言い張ることになるとは思いもしていなかった可能性が読み取れます。
彼は問い詰められます。まず「門番の女中」(17)に、そして「人々」(25)に、そして最後には「大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者」(26)に。決定的な証拠が突きつけられたとき、ペトロはイエスを否認したのです。一度目は軽く、しかし3度目にはおそらく激しく。そんな自分の行動に、きっと彼はハッとしたのだとわたしは思います。それを気づかせたのが「するとすぐ、鶏が鳴いた。」(27)、その鳴き声だったのでしょう。
そんな傷を抱えたペトロが、あの安息日に何をしていたのか。怠惰に過ごしていたとは思えません。心が入り乱れ、決して平穏ではいられなかったに違いない。悶々と一日を過ごしただろうし、おそらくその夜だって熟睡など出来なかったことでしょう。
マグダラのマリアにしても状況はそんなに違わなかったろうと思います。彼女は他の3人の姉妹と共にイエスの十字架の側に立ち尽くし、イエスの最期の瞬間を見ていました。いわばイエスの死の証人です。おそらく誰よりも、イエスが確実に亡くなったことを知っている一人でしょう。自分の罪を告白し信じてイエスに従ってきたのに、そのイエスが殺されてしまった。しかも何も出来ない土曜日。おそらく何も手に着かない一日を過ごし、その夜もまんじりとも出来なかったのではないか。
だから夜が明けたとき真っ先に、彼女は香油を持って駆け出していったのです。イエスが死んだことを誰よりもよく知っている彼女は、死体となったイエスをちゃんと葬りたい、ちゃんと時間をかけて、丁寧に葬りたかったのではないでしょうか。ところが、死体のあるべきところに死体がない。その代わり園丁がいたのです。彼女はどうやら園丁を一瞥して背を向けたのですね。そして背を向けたままで園丁に聞いています。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」(20:15)。つまり彼女はその死体を返してほしいと願っているのです。
ところが園丁だと思ったその人は驚くべき返答をします。「「マリア」と言われる」(16)。マリアはいきなりその人から名前で呼ばれたのです。「彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。」(同)。なんという驚き。死体だとばかり思って必死に探していたイエスが生きて目の前にいる。頭の中がこれ以上ないほど混乱したまま、しかし生きているその人にマリアはすがりつこうとしたのです。わかりますよ。何がどうなったのかひとつも理解出来ないけれども、あの、死んだはずのイエスが、確かに生きて目の前に立っているのです。当然すがりつこうとするでしょう。しかしイエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい。」(17)とマリアを突き放すようなことを言う。
マリアは何にすがりついた、何にすがりつこうとしたのでしょう。それは自分の乱れた心を安心させるものだったに違いありません。死んだはずのイエスが生きていてそこにいる。これ以上の安心はないわけですから。「やっぱりそうだった」という安心感が、彼女の手を伸ばさせたのです。
わたしたちも欲しいのは安心感です。激変に身をまかせるよりは、慣れ親しんだ環境にいる方がよほど良い。飛躍的に進歩は出来なくても、ゴールが見渡せる安心感がある。「やっぱりそうだった、わたしの思ったとおりだった」という方がよりよい。それがわたしたちのホンネです。
イエスはマリアとわたしたちの、その願いや希望や安堵の根拠をこそ拒絶されたのではないでしょうか。信じて安心を手に入れるのではなく、信じる故にたとえ激変の流れの中に身を置くことになったとしても、与えられた務め、与えられた使命を果たすことに生きるような。すがりつくのではなく脱ぎ捨てること。それが復活の主にまみえるわたしたちに課せられた試練なのではないか。そんなことを思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。混乱する中で、自分にわかりやすい答えを得ようともがくときに、わたしたちは慣れ親しんだ自分の習慣や、これまでの常識に留まることを選び、それにすがりつきます。しかし復活の主はわたしたちの理解を超え、常識を超えてここにい給いて、わたしたちに「すがりつくのはやめよ」と言われます。神さま、あなたの救いのご計画、あなたのみこころは理解出来ることではありません。理解出来ることではなく信じることです。どうぞわたしたちを、あなたの導きを信じ歩む群としてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。