創世記25:29−34/ローマ8:1−11/マタイ20:20−28/詩編118:1−9
「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ20:26−27)
ここに2004年にPHP研究所から出版された「サーバント・リーダーシップ」という本があります。
「サーバント・リーダーシップ」というのは1960年代の終わり頃にロバート・グリーンリーフという人が書いた「The Servant as Leader」という本から始まっています。しかし元々は2千年前のイエス・キリストの生き方・考え方に根ざしています。それこそ今日の福音書の箇所に表れている考え方です。
この本がPHP研究所から出版されているということから、想像がつくと思いますが、「サーバントリーダーシップ」という考え方はビジネス界で広く用いられているリーダー論のひとつなのです。
この本を翻訳したのは石田量という人ですが、この本の「訳者あとがき」にこんなことを書いています。「最近は、長引く不況と、リストラの日常化の中で、「人に優しく」「傷ついた心を癒す」、あるいは「成果主義はダメだ」「皆仲良くすれば何とかなる」といった議論が多いように思います。それが人々に受け入れられるのは、「リストラされた人は、かわいそう、仕事も大変になって、自分たちもかわいそう」という自然な感情が働くからでしょう。そこでは、「あなたは頑張ってきた、大変なのによくやった、理不尽なのは会社だよね」と慰めてあげ、さらに「ちゃんと自分を見ると、こんなに素晴らしい能力がある」と気づかせることで、傷ついた人々の立ち直りを促しています。これはいわゆる「弱者の論理」だと感じませんか。こころのケアの必要性は言うまでもありません。それは、愛情に根ざした思いやりでもあります。でも、それだけでは不十分だと思います。さらに、本当の愛を実践するなら、「理不尽だと感じることがあっても、それでもなお、できる限りの力で人に尽くし、苦難の道を逃げずに歩いて行く」ことを説き、一緒になってそれを選択するしかありません。共に選択し厳しく意見をぶつけ合い必死に努力し行動すること、これしか南極を打破する術はないと思うのです。」
これが2004年の社会に向けたメッセージであることにちょっと驚きを感じます。「人々に受け入れられている」状況の分析は、2025年度を迎えた今の社会ではさらに極端になってきています。先日4月3日朝のニュースでは「新年度が始まってまだ2日しか経っていないのに、退職代行サービス会社には既に13人の相談依頼があった」というものでした。テレビのCMはいつ頃からかいわゆる「転職サイト・転職サービス」が圧倒的物量で流されるようになりました。どれも「あなたのキャリアはそんなものじゃない」と誘いをかけますが、現実の会社で一人の人がそんなに高くキャリアを評価されるわけはありません。CMがつくり出すイメージと直面する現実の乖離という厳しさの中で、多くの人が自信喪失の裏返しでしかない自信過剰に陥っていて、さらに社会を息苦しいものにしてしまっている。そんな気がしてなりません。
でも「サーバントリーダーシップ」のいちばんの根っこにあるのは「他者に対する信頼」とか「他者に奉仕する喜び」です。「他者に奉仕することで、相手がより健全に、賢く、自由に、自律的になり、自己中心的な欲望に執らわれない真の奉仕者として成長してゆくこと」だと、石田さんは語っておられます。
イエスにおいてはついにそれが十字架での死まで行き着いたということのハズです。生身のイエスがそれを悠然と受け止めたのかどうかは定かではないけれども、少なくとも彼も自分の「死」を自覚し覚悟したことは事実でしょう。その自覚や覚悟を弟子たちと分かち合ってほしくて3度も受難を予告したのに、その直後でも、弟子たちは相変わらず自分たちの地位やその順番のことに心を奪われていた。イエスをいちばん近くで見ていた弟子たちにさえ、「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(20:27-28)というイエスの思いは伝わらなかったのです。
レントの日々をイエスの受難を憶えてわたしたちも過ごしています。しかし、わたしはイエスの思いを理解出来るのだろうかという疑問が常に湧きます。そもそもわたしは他者に仕える喜びなんて本当に持っているのか、そんな思いが私の人生の中でちゃんと醸成されてきたのか。ひょっとしたら皆無なのではないか。そして事実皆無なのです。他者に仕える喜びなんてわたしにはないのだと思い知らされる。
ところが、あの弟子たちは、ある日を境に全く別の人生を送ることになります。彼らがそれを望んでいたのかどうかは知るよしもないけれど、何かがきっかけとなって、彼らは結局あの日イエスが望んだように「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(27)という人生を生きることになったのです。
それを引き起こした「何か」を取り出してみんなに見せることができないからこそ、聖書は「それ」を「聖霊」と呼んだのかも知れません。いや、何と呼ぶかなんてホントはどうでも良いのです。そうではなくあの弟子たちが事実劇的に変わったのです。何かが、何かの力が働いたとしか考えようがない。そしてその力は、今この時代にも、わたしたちを取り巻いている。そういうことなのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。すべての人の僕になる道をわたしたちの主は説かれました。その主の最も近いところにいた弟子たちにはその時その意味が伝わりませんでした。その話を2千年を経て読んでいるわたしたちも、その意味は伝わりません。しかしわたしたちの主はその言葉通りを生き、言葉通り死んだことをわたしたちは知っています。そしてあの弟子たちが劇的に変化したこともわたしたちは知っています。その同じ力が、今わたしたちを取り巻いていることを信じさせてください。わたしにも神さま、あなたの力が及んでいることを、信じさせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。