ヨブ1:1−12/Ⅰペトロ4:12−19/マタイ16:13−28/詩編86:5−10
「イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」」(マタイ16:23)
先月、カナンの女の信仰と小見出しの付いているマタイ福音書を読んだとき、「どうしてイエスは他の癒やしの物語のように、喜んでこの異邦人の娘を癒してあげないのだろうか、と悩んでしまう」「自分の信じているイエスの、例えば優しさとか懐の深さとか、そういうイメージが悉く覆されそうになる」という危機感の中で「「イエスのイメージが壊れる」から問題なのではなく、イエスに抱くそのイメージは正しいのかどうかが問われているのではないか」と思い直したお話しをしました。今日お読みいただいた福音書の箇所も、同じ問いがわたしに向けて突き刺さってくる箇所です。
イエスの人生の旅がもう終わりに近づいています。弟子たちはわからないながらもイエスに従い、その驚くべき業をその目で見て、またそのことで多くの人々からイエスに寄せられる称賛の声を耳にし、自分たちもまたこのイエスに自分の人生を賭けようという思いがますます強くなっていたのではないか。しかし、称賛が多数寄せられるということは、同時に命の危険が増すということでもあります。弟子たちは自分たちを取り巻くそういった緊張を強いられる状況の中でイエスに従い続けたのだと思うのです。
だからイエスが「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(16:13)と尋ねるときに、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(14)と答えるのが精一杯だったのだと思います。そしてイエスの問いが「人々は」から「あなたがたは」(15)と変わったときに──それは弟子たちにも「自分の受難」を実感させる迫りだったと思います──、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(16)と答えます。例によって多少おっちょこちょいのペトロだと言えば説明のつく話ですが、おそらく他の弟子たちもそれは同じ気持ちだったと思います。ただイエスをメシアと正面から呼ぶには、たぶん憚られるような状況がそこにはあったということでしょう。
イエスはペトロがそのように答えたことをペトロの強く堅い信仰の故だとは言いません。そうではなく「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(17)と言います。岩波版聖書の訳者佐藤研さんは「〔そのことを〕あなたに啓示したのは肉や血ではなく、天におられる私の父だからである」と訳しています。ペトロのキリスト告白・メシア告白は、神の啓示によるのだと明確にイエスは言いきっている。そしてその啓示によってもたらされたペトロの告白をイエスは受け入れ、喜んでくださった。そういう物語です。
イエスのことを「神の子です」と言っていたのは弟子たちみんなでした。例えば湖の上を歩いて舟に近づいてくる幽霊のような存在がイエスだとわかった瞬間、ペトロは自分も水の上を歩いてイエスの下に行きたいと言い、許されたにもかかわらず、歩き出した途端怖くなって溺れるという物語があります。イエスによって捕まえられ助けられ、舟に引き上げられたときに、「舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」(マタイ14:33)とあります。だからペトロだけが特別そう思ったのではありません。でも、それを直接口にできない暗い状況が彼らを覆っていたのです。そして案の定イエスは「御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」(16:20)のでした。
そしてまさに「このときから」(同21)、自分が受難することを弟子たちに話し始めます。暗い状況が覆っている事実をイエスが認めているということが弟子たちにも明らかにされたということではないでしょうか。その時、あのキリスト告白をしたペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(22)と、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(同)。佐藤研さんは「いさめ始めた」ではなく「叱り始めて」と訳しています。これもまた弟子たち一同の思いだったのではないでしょうか。「本当に、あなたは神の子です」と言い切ることの出来る唯一の存在であるイエス自ら「多くの苦しみを受けて殺され」(21)るなどと言って欲しくない。
一方でイエスは、まさに「このときから」と書かれているように、この時から弟子たちに打ち明けても良いと覚悟を決めたということではないでしょうか。心から信頼して、後を託しても良いと「天の国の鍵」(19)を授けたのに、まさに「このとき」彼らは神の啓示を振り切って人間の思いだけを充満させた。「神のことを思わず、人間のことを思っている」(23)とイエスの言うとおりだった。
ペトロへの叱責という出来事に、わたしはイエスがまことの人である証しを見る思いです。神のご計画ではあっても、受難という現実を受け入れるには覚悟がいるのです。イエスだから、ましてや死んでも3日目には復活出来るからと、軽い気持ちで受難するはずなどない。だからせめて弟子たちには、同じ思いになってほしかった。ようやく「このときから」話せると、弟子たちを信頼し始めた矢先のペトロの行動=弟子たちの行動だった。だからイエスはペトロを激しく叱責したのではないか。ここにまことの人、人間イエスが極まったのではないか。わたしにはそう思えるのです。
ペトロにとっては天国から地獄に真っ逆さまの心境だったかも知れません。おそらくペトロはイエスのためを思ったのです。だからイエスがよもやこういう反応をするなんて思いもしなかったのではないか。しかし時が来たとき、こんなペトロもやはりイエスに従う者になっていくのです。その変化こそ神の啓示によるとしか言いようのないこと。そして神の啓示ならば、わたしもまた今は思いもかけない事へと、いつか連れ出されることになる、かも知れない。その時、信じて歩み続けてきた道をさらに進んでゆくことが出来るよう、神が導き明らかにしてくれることを望みたいと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたが明らかにしてくださったからこそペトロはわたしたちの主をメシアだと告白出来ました。わたしたちもまた、あなたの啓示によって初めて、信仰を告白出来るのです。そしてそのことを主は喜んでくださるのです。完全に理解出来たからではありません。だからサラに迷い、躓きます。それでも、御心のままにわたしを用いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。