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2025
16Mar

「神の国はどこにくる?」滝澤 貢牧師

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https://yotsuyashinsei.jp/wp-content/uploads/2025/03/20250316.mp3イザヤ35:1−10/Ⅰヨハネ3:1−10/マタイ12:22−32/詩編130:1−8

 「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)

 イエスの評判が上がってくるということが、イエスの命を危険に晒すことになる。受難節はそんな緊張感がどんどん切実になって行く季節です。
 今日、レント2週目に選ばれた福音書の箇所は、「妬み」という人間の感情が緊張を引き起こす典型的な例ではないかと思います。
 「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」(マタイ12:22)が登場します。たぶん当時の人々にとって「目が見えず口の利けない」という現実は「悪霊に取りつかれて」いることだと信じられていたのです。その人をイエスはいやしたのです。つまりその人に取り憑いていたとされる悪霊がイエスの力で去ったので「ものが言え、目が見えるようになった。」(同)。イエスの周りにいた人は皆この瞬間そのように思ったということでしょう。そして群衆はおそらくそのように言い出したのです。こんなことができる以上、イエスはただ者ではない。ダビデの子、みんなが待ち望んだメシアではないのか、と。そんな声があふれだした只中にファリサイ派の人もいたのでしょう。群衆のそんな反応に対して彼らは答えます。「あれはダビデの子でも、ましてやメシアなどでもない」「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(同24)、つまり「その力の源」がダビデや神でなどあるはずもなく、「悪霊の頭」の力に頼っているのだ、と言っているわけです。
 彼らにしても、目の前に実際に癒された人がいるのです。群衆が皆驚くほどの出来事です。岩波版の聖書では佐藤研さんが「すべての群衆は正気を失うほど驚き」と訳していますが、その驚いた人の中に彼らファリサイ派もいたのです。圧倒的な現実を目の前にして、さすがに彼らも「癒された」現実は認めざるを得ない。だけど、その癒やしの力がどこから出ているのかという点に、難癖を付ける糸口を見出したということではないでしょうか。圧倒的な現実と、それを引き起こすイエスに対するファリサイ派の「妬み」です。
 というのも、今日の箇所が福音書の中で置かれている位置がそれを裏付けています。12章は冒頭で、「ある安息日にイエスは麦畑を通られた」(1)のです。安息日にもかかわらず、不要不急な散歩をしている。これはただそれだけで明確な安息日規定違反です。それだけでなく「弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた」(同)。さらなる安息日規定違反を重ねたわけです。さらに進んで会堂に入ると手の萎えた人がいたのでその人を癒す。その行為は「人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた」(10)と、いわば罠を張って用意された事案にイエスが乗ったのです。それを咎める人々に対し、しかしイエスはより高い倫理を示します。「だから、安息日に善いことをするのは許されている」(12)。それが元で「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談」(14)するまでになったのでした。ファリサイ派にとって恐らく最も重要なしきたりが「安息日規定」だったのではないかと思われます。その規定を守れるか守れないかでまさに人々を分け隔てた。「ファリサイ」というヘブライ語は「分離する」という意味です。
 彼らによって分け隔てられてきた人たちは、イエスのあとをついて行くようになります。マタイは大勢の人たちがイエスについていくさまを書き記し、それが預言者イザヤの預言の成就であり、イエスこそ「神が選んだ僕」なのだと明記するのです。そしてイエスに従ったその人たちの中で今日の22節以下の出来事が引き起こされた。ということはファリサイ派の中では既に「イエスを殺す」ために段取りが進行している中でのこの出来事だったわけで、ファリサイ派の妬みはこれ以上ないほどに深くなっていたのだと想像がつきます。
 そんな緊張がクライマックスに達する中で、しかしイエスは不思議なことを言い出しました。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(28)。ここも佐藤研さんはこういうふうに訳しています。「しかし、もしこの私が神の霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の王国はお前たちの上にまさに到来したのである。」
 分離主義者たちであるファリサイ派に対して、イエスは分離されてイエスに従った人たちの上に神の王国が到来する──つまりファリサイ派には神の王国が来ない──と言うのであればよりわかりやすい。でもそうではないのです。イエスは明確に「神の王国はお前たちの上にまさに到来した」と言う。
 そのイエスの行いと執り成しがあって初めて、このわたしも神の国に招き入れられているのです。わたしたちの上に、神の国が、まさにイエスにおいて、今到来している。その事実が先にあって、わたしたちはイエスこそ「この人はダビデの子ではないだろうか」が現実になっているのを見るのです。

 祈ります。
 すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたが主イエスをわたしたちのために遣わしてくださったことが今わかりました。主イエスがわたしの隣人である一人を癒すときに、そこに神の国がまさに到来している。その事実を一緒に喜ぶことが出来ますように。わたしたちの上にまさに神の国が到来しているからこそ、わたしたちが成す小さな一つひとつのことが、御心に適って用いられる。そういう群としてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

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