イザヤ30:8−17/使徒12:1−17/マタイ14:22−36/詩編107:10−22
クラシック音楽の演奏会などに行きますと、パンフレットに必ず演奏者のプロフィールが掲載されています。たとえばピアノの演奏家ですと、何歳からピアノを始めたとか、どこの音楽学校を卒業したとかに加えて、どういう先生に習ったかということを「師事した」と書かれています。そんなに特別な言葉ではないだろうと思いますが、でもわたしの暮らしの中ではこういったコンサートのパンフレットなどでしか目にしない言葉ではあります。
気になったので調べてみたのですが、「師」というのは文字通り「手本になる人」とか「教え導く人」という意味がありますが、問題は「事」という字です。通常は「ことがら」という意味でしか使いませんが、この文字には「仕える」という意味もあるのだそうです。そこから「師事する」という「手本になる人の弟子となって、教えを受ける」という意味の言葉が出来たのでした。
ということは、「○○先生に師事した」という時に、必ず「師匠と弟子」の関係性があることが前提になるわけで、師匠側の人が相手を「弟子」と認識しているとか、正式に入門の手続きをしているとか、そんな場合しか使うことが出来ない言葉なんですね。当然、人格的な交わりがそこにはある訳です。単なるテクニックの伝授である以上に、その師匠の人柄・人間性が、弟子を形作る上でとても重要なファクターになる、そんな関係までをも感じさせる言葉です。もちろん演奏者はそういう深みまでをちゃんと含んだ上で「○○先生に師事した」と書いているのでしょう。
一方、例えば「門下」とか「薫陶」という言葉もあります。「門下」と「師事」とはとても良く似た意味を持ちますが、門下の方がちょっと間口が広い印象を受けます。わたしには師事の方はプライベートな関係性をイメージさせる言葉です。
「薫陶」は特段の師弟関係がなくても成立します。直接交流したことがない、例えば歴史上の人物からであっても薫陶を受けることは出来ます。
もう一つ「私淑」という言葉もあります。孟子の言葉から生まれたのだそうです。私淑は「ひそかに」という意味が込められています。「ひそかに特定の人を詩として尊敬し、その人を模範として学ぶ」ということでしょう。「私」という言葉には「秘密」という意味があり、「淑」には「慕う」という意味があるそうです。
例によって、なんでこんなことを言うのかが問題ですよね。今日の福音書を読んでいて、イエスと弟子たちの関係性はどうだったのだろうかとふと思ったのです。ペトロが登場しますが、例えばペトロとイエスの関係性です。ペトロはイエスをどう思っていたのか、そしてイエスは一体ペトロをどう思っていたのだろうか。そんなことを考えさせるお話だなぁと思ったのです。
イエスは弟子たちと離れて一人祈るために山に行く。弟子たちの中には元漁師が何人もいたので、「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」(マタイ14:22)、群衆と切り離したのでした。ところが湖の上を逆風が吹いてなかなか前に進めない。イエスはそんな弟子たちのところに「湖の上を歩いて」(25)近づいて行かれたわけです。舟の上ではみんなが驚いて、「「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげ」(26)る始末です。イエスは騒ぐ弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(27)と声をかける。するとペトロが自分も湖の上を歩くと言い出す。イエスの許可を受けて歩き出したけれども「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」(30)。「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。」(31)。
有名なこの物語を振り返ると、ペトロはイエスを師匠として師事していたのかどうか考えさせられます。ペトロの側に問題あり、つまり弟子の側に問題ありでしょう。この関係性でペトロが自分のプロフィールに「イエスに師事した」と書いたらみんなに叩かれるに違いありません。「師事する」と言ってしまうと師匠の名誉を傷つけるに違いないからです。
でもひょっとしたらイエスの方はペトロが自分のプロフィールに「師事した」と書くことを赦してくれているようにも思えます。ペトロにはイエスを信じようとする心が間違いなくあるのです。でもそれと同じくらい信じられない、信じ切れない、疑ってしまう心もあった。そしてイエスは、ペトロのその全部を受け止めて「師事」という関係性を貫いてくださっている。そう思えるのです。
さてわたしは、生身のイエスと同時代を心通わせて過ごすことなどできないです。イエスは歴史上の人物ですから。となると、わたしの精一杯は「イエスから薫陶を受けた」というのが精一杯。あるいは、信仰を公にすることが憚られるくらい全くダメダメなのだから、せいぜい「私淑」かも知れません。「ひそかに信じる」いや、「信じていることを秘める」べきかもしれない.出ないとこの程度の信仰では逆に多くの信者の尊厳を傷つけることになりかねないではないか。
すると、ペトロの姿は弟子の代表であるだけでなくわたしそのものです。わたしにもイエスを信じようとする心が間違いなくある。でもそれと同じくらい信じられない、信じ切れない、疑ってしまう心もある。2つの思いがわたしの中で切り離すことが出来ないまま同居している。
そんなわたしに対しても、イエスは仰ってくださるに違いない。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。どうしても不完全なままでしかあなたに従って行くことが出来ません。あなたの心をわたしたちに伝え示し続けてくださる主イエスを信じる気持ちはあるのに、それと同じくらい信じられない気持ちもあるのです。この切り離しがたく凝り固まったわたしを、しかしどうぞ赦し、導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。