列王下5:1−14/Ⅱコリント12:1−10/マタイ15:21−31/詩編103:1−13
「そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。」(マタイ15:28)
今日の福音書、「カナンの女の信仰」と小見出しの付いているお話はマルコ福音書にもある話です。
マルコ福音書の方では「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」(マルコ7:24)と最初に書かれています。読んでみるとどうもこのことがこの話のテーマのようです。イエスと弟子たちは休養のためにティルスに来ていて、シリア・フェニキアの女はその休養を邪魔している存在として描かれています。パンと子犬の話はマルコにももちろん出てきますが、「大事なことは大事にしなさい」という程度の意味の諺と理解しているようで、マタイほどにその対比をユダヤ人と異邦人にまで拡大していないように読めます。
一方、有名なのはむしろ今日お読みいただいたマタイの方で、子どもたち=ユダヤ人、子犬=異邦人というれっきとした区別/差別の中で物語が進んでいるのです。だから、例えばイエスに対してこよなく優しいイメージを転化している人にとっては、イエスが異邦人の女に冷たすぎるのを受け入れるのに苦痛を感じてしまいます。わたしもそうです。どうしてイエスは他の癒やしの物語のように、喜んでこの異邦人の娘を癒してあげないのだろうか、と悩んでしまうのです。さらに物語が進むと、この異邦の女性の美事な機知・気転にふれて、イエスがご自分の考え方を改めるわけです。福音書の中でイエスが自分の考えを出会いによって改められるという話しも、あまり目にしたことはありません。その意味でも今日の箇所は特筆するべき箇所ですが、だからこそ余計わたしなどは混乱してしまいます。自分の信じているイエスの、例えば優しさとか懐の深さとか、そういうイメージが悉く覆されそうになる、そんな箇所です。
この箇所を読むときに、いつでもそうなってしまう。イエスのイメージが覆されてしまい、戸惑ったり悩んだり、怒りがこみ上げてきたりする。そうであるならば、ひょっとしたらこの箇所は、そういう思いをわたしたちに味合わせるために書かれているのではないか。つまり、「イエスのイメージが壊れる」から問題なのではなく、全く逆に、イエスに抱くそのイメージは正しいのかどうかが問われているのではないか。もう少し丁寧に言えば、イエスにそのイメージが欲しいのはわたしの方なのではないか。わたしが勝手に抱くイメージ通りのイエスでなければ混乱するという、ただそれだけのことではないのか、ということです。
今回の石垣研修で、ジョン・ディアというイエズス会の司祭でアメリカの思想家の本を紹介されました。「山上の説教を生きる」という本です。イエスはおそらくアラム語を話したと考えられます。その語録が福音書としてまとめられるときにコイネーというギリシャ語に翻訳されます。しかしわたしたちはコイネーギリシャ語の聖書までしかたどれないので、例えば「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)という箇所をその通り読むわけです。しかしこのディアという人はアラム語を丹念に調べた上で、この「幸いだ」という非常によく知られつくした言葉を「立ち上がって前進せよ!」と読み替えたというのです。確かに福音書の中でのイエスの癒やしの物語では「立ち上がれ!」という言葉にたくさん出会います。病に苦しむ娘の手をとって起こし、池が波立つのをじっとこらえて待っている人に床を畳んで歩けと命じ、ご自分が逮捕されることを知りつつ弟子たちに「立て、さあ行こう」と、立ち上がって前進することを自ら率先するのがイエスです。その結果彼は十字架で殺されるわけですが、その生き様を見るにつけ、こよなく優しいイメージだけがイエスに最も相応しいのか、やはり考えさせられるのです。イエスは十字架で殺されるけれども、それで終わりではない生き方を示された。わたしたちは、生きるという現実の中で、様々に苦悩を味わうわけで、しかもそれは、ブッダを信じようが、新興宗教やカルト宗教を信じようが、イエスを信じようが、現世の苦しみはつきまとうわけです。生きるとは苦しむことなのかもしれないけれど、少なくともイエスはそれで終わりではないことを自らのいのちでもって示されたのです。
それはつまり、イエスの前に跪けば、たちどころに全ての苦しみから解放され、病が癒され、全て良い方に向かうなんてことではないのだ、と、イエスご自身が生き方でわたしたちに示されているということです。御利益はないかも知れない、だけど、これで終わりではない、「立ち上がって前進せよ!」。そこに道は開ける。それが「幸い」なのだ、と。
そして、その時、わたしたちは「願いどおりになる」ことをきっと体験するのです。
カナンの女はイエスの弟子たちにどれ程邪険にされても、またイエスご自身からも理解してもらえなくても、「立ち上がって前進」したのだと思います。その姿に対してイエスは心を入れ替えたのです。イエスの心を突き動かしたのです。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」、そして「あなたの願いどおりになるように。」(マタイ15:28)。
わたしたちが「立ち上がって前進」するとき、きっとわたしたちの願いどおりになる。願いどおりになるまで立ち上がり続ける。何度でも何度でも。その時、道が開けるに違いないのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。カナン人の女性がわたしたちの主イエスの心を動かし、主イエスの考え方を変えさせました。わたしたちのいのちは苦難に満ちていますが、しかし主イエスはその生涯、その殺され方を通して、それでも立ち上がるときに終わりが終わりでなくなることを示されました。それが神さま、あなたの御心なのであれば、わたしたちも何度でも何度でも立ち上がり、開かれた道を前に進みます。その信仰を与えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。