イザヤ30:18−21/Ⅰテモテ4:7b−16/マタイ5:17−20/詩編119:9−16
「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイ5:20)
先日幼稚園の教育講演会では映画を鑑賞しました。「夢見る小学校」という映画で、南アルプス子どもの村小中学校の記録映画です。
この映画の中に世田谷区立桜丘中学校の元校長の西郷孝彦さんという方が登場します。日本中いろんなところで講演活動をなさっているので、この映画だけに登場しているわけではありませんが、初めて西郷さんのお話しを聞いた保護者の方々はビックリなさいます。今回の教育講演会でもそうでした。何がビックリさせるのかというと、普通の公立中学校で一つひとつ校則を検証していくうちに最後は全部なくなってしまったというのです。つまり、西郷さんは公立中学校の校長でありながら、学校の校則を全てなくしてしまった校長先生として有名なのです。
どうして校則をなくしたのかとあちこちで質問されるそうです。あるいは規則がなくて学校の秩序は保たれるのですか、と。それに対して西郷さんはこう答えます。「理由のない校則があると、子どもたちから考える力を奪います。」「人間がいちばん成長するのは夢のような環境にいるときなんです。そのイメージを中学校でも作りたいなと思いました。」。そして、校則は全部なくしたけれども最後に「桜丘中学校の心得」という3つの決まりだけ残したそうです。「1:礼儀を大切にする、2:出会いを大切にする、3:自分を大切にする」。人間同士が──中学生もオトナも──学校という場で一緒に暮らして行くために心得としてこの3つは留めておこうとなったのですね。
この最後に残った3つのこと、自分と出会いと礼儀を大切にする。これは一緒に暮らすために自他を共に大事にすることに他なりません。そのように考えてみると、この3つの心得はそのままイエスの教えに通じているのではないかと思えます。神を愛し、自分を愛し、それと同じように他者(隣人)を愛する。そしてそれはイエスにとって、数多ある律法の中で最も大切な戒めだとされています。あるいは律法の全てはこのことに集約する、と。
マタイ福音書はイエスの説教集としてまとめられている福音書ですが、ひとかたまりで最大の説教群が「山上の垂訓」として知られているマタイ5章以下です。お読みいただいた5章17節でイエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と述べます。そしてその言葉通り21節から7章27節まで、イエスの時代に聞かされてきた律法と、それを凌駕するイエスの教えの対比で綴られています。その説教を聞いた群衆は「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」「その教えに非常に驚いた。」(7:28−29)のでした。
この群衆の反応が面白いですね。山上の垂訓を読んで、ここに綴られているイエスのようにではなく群衆に教える「彼らの律法学者」の教えぶりが群衆の反応から垣間見られます。想像するに、おそらく律法学者たちには律法そのものが不磨の大典としてあった。書かれているあるいは伝えられている規則を守ることだけが出来る唯一のことであって、必要に応じてそれを持ち出すことにより、律法学者が律法学者としての権威を保った。戒めを守れないという事実は、真面目であれば真面目であるだけ自分を貶めてしまうことにつながります。中学生に理由のない校則を守らせることによって学校という秩序を保つのと同じ理屈です。学校にとって管理しやすい生徒が求められているのです。宗教指導者にとって管理しやすい群衆が求められているのです。
しかしイエスは違ったのです。「律法を守れ」というのではなくさらにその上を行きなさいという。例えばよく知られた山上の垂訓の一節にこうあります。「「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43−44)ただでさえ守ることが難しい律法のさらに上の水準が示される。人々にとってそれは果てしなく高いハードルに違いないのです。しかしイエスは、それが神の御心だと言う。しかも権威をもってそう語る。圧倒的に守れない水準の高さを示して、しかし守れないものは滅ぼされるとは仰らない。そうではなく「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(7:11)。神は見捨てないから求め続けなさいと仰るのです。
神は愛であって、わたしはその神に愛されている。そしてわたしの隣人もまた神に愛されている。だから先ず神を信じ、神に愛されている自分を愛し、同じように隣人を愛する。それこそが律法の真髄であると仰るイエスの教えに、これからも聴き従いたいと願います。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。神さまは愛であって、その愛によってわたしは支えられています。あなたに愛されている一人として、神さまを崇めることが出来ますように。自分を愛することが出来ますように。わたしと同じように愛して生かしてくださっている隣人を、わたしも崇めることができますように。その愛の広がりによってこそ、わたしたちは平和に生きられるのだと主はお教えくださいました。その教えにこれからも聴き従うことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。