イザヤ6:8−12/ローマ1:18−25/マタイ13:10−17/詩編86:11−13
「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」(マタイ13:16)
今日の福音書の箇所は、前半部分はマルコにもルカにもあって、後半16節以下はルカにあります。どの並行箇所も、今日お読みいただいたイザヤ書6章9節10節の預言が引用されています。
イザヤ書6章はイザヤが神によって召し出された顛末が語られている箇所です。8節はだから神の招きのことばでしょう。そのことばにイザヤが手を挙げて「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」(6:8)と立候補したわけです。すると神はそのイザヤに語るべき言葉を授けるのですが、それがなんとも奇妙でした。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。/この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」(同9−10)。これはつまり、神の言葉を聞いた民を神自ら頑なにするということでしょう。神はご自分の言葉をイザヤを通して民に届け、しかもその民は神の言葉を聞かないことも織り込み済み、なんならわざわざ民が言葉を聞かないように預言させる、と言っているわけです。「頑迷預言」などと呼ばれます。
もちろんイザヤは同胞イスラエルが神によって救われることを望んだはずです。そのために預言者として立候補したのです。だからこの箇所は神が予めイザヤに対して慰めを語っているのかも知れません。結局イザヤの預言活動は、民が罪から離れることなく、頑なになり、国そのものが滅び、他国の捕虜となるという現実に至ります。神の救いを語る預言者としてのイザヤは、その生涯を失敗に終わったということでしょう。しかし神はそうなることも織り込み済みで、イザヤを召し出すとき既に「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」(同7)と、最初からイザヤの罪を贖っておられたということなのかも知れません。
そんなイザヤ書を引用して、マタイもマルコもイエスの口からその言葉を語らせているのです。それにはいったいどういう意味があるのでしょうか。
例によってマルコの方はとてもシンプルで素っ気ない書き方ですが、マタイは少し違います。マルコでは弟子たちが「たとえの意味」について尋ねるのですが、マタイは、「どうして群衆にたとえで語るのか?」と疑問に思っているというのです。それに対してイエスは「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」(マタイ13:11)と答えます。その直後に「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(同12)という言葉が続きますが、この二つ11節と12節が簡単には結びつかないように見えます。話が続かないように見えるのは11節の「許されている」という単語のせいです。ギリシャ語本文では「ディドーミ」という単語ですが、これの第1の意味は「与える、賜う、施す」です。ということは11節は「あなたがたには天の国の秘密が与えられているが、あの人たちには与えられていないからである。」という意味で、だから既に与えられている弟子たちがさらに増し加えられて豊かになる…となるわけです。
ところが、「天の国の秘密が与えられている」どころか更に増し加えられるはずの弟子たちには、イエスのたとえが何のことなのかわかっていない。マルコはわざわざ「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」(マルコ4:33−34)と書いています。群衆の面前では弟子たちの面目も保たれたけど、弟子たちだけになったらさっきのたとえの意味を種明かししてくれたのだ、ということでしょう。マルコ福音書は「弟子の無理解」がひとつのテーマで、それがだいぶ薄れているマタイにしても、この辺りの事情に大差はないでしょう。ということは「天の国の秘密が与えられている」弟子たちも「与えられていない」あの人たちも、イエスが語るたとえの意味がわかっていない、本当はわからないという点で、何の区別も差別も優劣もないということです。
そうなると、わたしなどは、ここで弟子たちに諭しているイエスの言葉がほとんど全部逆説的にしか響いてこなくなります。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」(マタイ13:16)という言葉を額面通り受け取ることは、少なくともわたしには出来ません。見ているのに、聞いているのに、信じていない、信じられないわたしに向かって「幸いだ」と語る。しかも「見ているから」「聞いているから」と。これは皮肉ではないか。ひょっとしてイエスは弟子たちにもわたしにも皮肉を語っているのか?。
「天の国の秘密が与えられている」弟子たちと「与えられていない」あの人たちに何らの区別もないとしたら、クリスチャンだからとか洗礼を受けているからということだけで他と区別することは出来ないということを意味していることになります。そういうかたちだけのこと・うわべだけのことを、少なくともイエスは問題にしていない。それはわたしにとっては裁きの言葉ですが、しかし同時に慰めの言葉にもなる。どうしてか。イエスは謎めいた言葉で天国のヒミツを、誰にもわからないように語るけれども、それでイエスを見限るのか、逆にそれでもイエスに従って行くのか。イエスは、わたしたちがそれでもイエスに従っていくことだけを、どうやら求めておられるようです。だから悟らない・悟れない弟子を見限りません。
弟子たちもわたしも「見ず、聞かず、悟らず」。合格点なんて取れそうにないのだけれど、合格に至らなくても、それでもイエスについていく、イエスに従って行く。そのことをイエスは受け入れてくださり、失ったものを見つけるように喜んでくださるに違いないのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。天の国の秘密を主イエスはたとえで教えてくださるのに、わたしにはそれが理解出来ません。「見ている」のに「聞いている」のに、悟ることが出来ないのです。それでも主は、悟らないままであなたに従って行く弟子たちを見放しも切り捨てもしませんでした。それが神さま、あなたの御心だと信じます。わからないままについて行くだけのわたしを、どうぞ赦し救ってください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。