創世記28:10−22/使徒7:44−50/マタイ21:12−16/詩編84:1−13
「そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」」(マタイ21:13)
都心で暮らしていますので、休日にはせっかくだから江戸・東京を思わせる場所を訪ねてみたいと思い、土曜日に時間があるとあちこちに出かけています。どこへ行ってもインバウンドで外国人観光客が目立ちますので、できるだけ人の来なさそうな場所を目指すのですが、そもそも情報源がテレビ番組、みんな考えることが同じなのでしょうね、どこへ行っても放送後は大混雑です。
最近では「谷根千」の愛称で人気のある根津・千駄木・谷中に出かけました。先日、日本基督教団根津教会で北支区按手礼式がありました。根津教会はとても趣のある建物で、地下鉄を東大前駅で降りれば10分ほどです。あの日もその道を通って、教会近くの根津神社を通り過ぎたのですが、とても気になる神社でしたので、機会を改めて行ってみたのです。神社には多くの人がいました。その境内を歩いていると、たくさんの祠や庚申塔がありました。由来書きを見ると、東京が都市化して行くときに、辻にあった祠や庚申塔が行き場に困って根津神社の境内に集まってきたということのようでした。それもまた東京の歴史の一面をよく現した出来事だと思いました。
日本橋七福神巡りにも行ってきました。「日本橋七福神めぐり公式サイト」なるWebSiteがあって、そこには7箇所の神社が記されていますが、一方人形町商店街協同組合のホームページには8つの神社が記載されています。面白いですね。全部まわっても小一時間程度だというので8つをまわってみました。
一番人気だったのは小網神社で福禄寿と弁財天が祀られています。社殿前の道路をぐるりと参拝客が囲んで並んでいました。たぶんみんなお金を洗うので参拝に時間を要するのでしょう。福禄寿は福徳長寿の神、弁財天は商売繁盛・学業成就の神だそうです。時節柄受験生も多かったのかも知れません。
二番人気は椙森神社、恵比寿さまが祀られています。絵馬がたくさん奉納されていましたが、「宝くじが当たりますように」に混じって「一等が当たりました」「一億円当たりました」などと言うにわかには信じがたい絵馬も結構ありました。
だいたいどこも、女性グループ──若い人たちも、それなりの人たちも──の参拝者が多いのですが、唯一おじさんたちが一人でだったりグループだったりで参拝している神社が末廣神社でした。ここは毘沙門天が祀られていますが、謂われ書きを見ると「特に勝負事に利益あり」と書いてあり、なるほどなぁと思いました。
無宗教の国と言われる日本の、その首都である江戸・東京で、21世紀も四半世紀を迎える今、お金や勝負事にまつわる神社は大人気であることとか、一方世界の守護神である多聞天や国の始まりに由来する大国主が祀られているところや、同じ恵比寿さまでも場所によってはわたしたち以外に参拝者がいないところもあるわけで、「世界の安寧よりゼニかよ」とツッコみたくもなりますが、なかなか皆さん正直なのだと思いもしました。そして、この実態を見れば、案外多くの人が信仰心を持っているのではないかとも思ったのです。もちろん問題はその信仰の中味なのかも知れませんが。
今日、福音書に出てくる神殿は、イエス誕生時に登場するヘロデ王によって大改修を施され、その工事が進んでいた時代の第二神殿です。そしてマタイの時代には既にローマ軍によって徹底的に破壊され、廃墟同然だったと思われます。それでも、そうなる前にはユダヤ教の神殿としてローマ帝国によって一定の庇護を受けて宗教施設としてそこにあり続けたわけです。帝国の庇護を受けていたのは宗教儀式だけではありません。当然ながら今日イエスによって追い出されてしまう両替や鳩を売る商売もまた庇護を受けていたわけです。人々はそのレートが随分高いと思ったとしても、引っかかるのはその程度だけで、逆にイエスの行為の方がヘン、安寧を妨げる不逞な輩だった。それだけでなくユダヤ教当局者にとってはイエスのこの行為が充分処罰にあたることであったし、それどころかこの行為故にイエスは殺されることにつながりますから、イエスのこの行為が彼らにとって極めてマズいところを突いたということでしょう。
「東京が都市化して行くときに、辻にあった祠や庚申塔が行き場に困って根津神社の境内に集まってきた」ということはとても面白いことです。そういった祠や庚申塔にどれ程信仰心があったかはわかりませんが、だからと言って道路拡張のために廃棄することも出来ない、少なくともその程度の良心(信仰心)が多くの人の心に存在したのだと思います。ホンキで信じているかどうかはともかく、宝くじが当たって欲しいとか、当たったから御礼に戻って来るという程度には良心(信仰心)が存在している。ユダヤの人たちにとっても、神殿に参って定められたとおりの捧げものを捧げる程度の良心(信仰心)はあった。そしてその信仰心から見たらイエスの行為の方が不逞だった。しかし、祀られているカミが充分に尊ばれているのかそれとも単に神殿が尊ばれているのか。逆に言えば神殿は尊ばれているが、祀られているカミはどうでも良い程度に軽んじられているのではないか。イエスは神殿よりも神を尊ぶことを、この行為によって示されたのではなかったか。
「ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」」(創世記28:16−17)。「ベテル」とは「ベト」と「エル」という言葉がくっついたものです。「エル」は「神」、そして「ベト」が「家」です。ヤコブは「まことに主がこの場所におられる」という出来事が先ずあって、それを記念し忘れないようにそこに記念碑を建てます。第一に尊ばれたのは出来事の方です。そしてそれは「神の臨在」だったのです。
わたしたちも、第一のものを先ず第一とする。そういう単純な信仰者であることを誇りとしたいのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたはわたしたちの心の中に、わたしたちの関係の中に、わたしたちに限りなく近いところにおいでになります。あなたがわたしを生かし、わたしの全てを司ってくださるのです。しかしわたし自身が神ではなく、神のように振る舞うことが赦された者でもありません。第一のものを先ず第一とする、あなたのみを神とし、神を先ず第一とする。その信仰をわたしたちに授けてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。