ホセア6:1−6
さて、本日の聖書箇所で人々は言います。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、癒し、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」。何故、彼らは自分たちが神から遠く離れていると気づいたのでしょうか?それは、彼らが敗戦の民となることによってでした。「神と共に生きる」という言葉の意味を自分たちに都合よく捻じ曲げ、「神に選ばれた特別な民が負けるはずがない」とうそぶき、武力や経済力に頼ったイスラエルは戦争に負けました。その結果、イスラエルは国を失い、多くの人々が捕虜や奴隷として敵国に連行されていったのです。そうした過酷な状況に追い込まれて、初めてイスラエルの人々は自分たちの間違いに気付いたのでした。
「主のもとに帰ろう」というホセアの呼びかけは、まず、人々に「自分たちは神と共に生きることを神と約束した人間である」ことを思い出ださせました。
「力に頼って生きることを捨てなさい。あなた達が『自分のものだ』と信じている力は、平和の神が平和の交わりに生きるようにと与えてくださったものでしょう。この世の栄華を求めるのを止めて、神様のもとに戻ろう」とホセアは呼びかけているのです。ホセアは「神のもとに戻れば、傷を癒してもらえる。毎年必ず大地を潤しいてくれる春雨のように、神様はわたしたちを潤してくれる、」と神様が与えてくれる恵みを丁寧に描いています。
そのうえで、ホセアは「主のもとに帰ろう」と呼びかけたのです。
けれど「神に帰ろう、神の平和に生きよう」と言う人々の言葉を聞いた神様は言われます。「エフライムよ、わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」。神様にとって、イスラエルの人々の神様に対する愛や神様のもとに帰ろうとする決意は、朝日の熱を受けてあっという間に蒸発していく露でしかないというのです。
人々は、戦争や戦後の混乱や悲惨な体験を通して、平和の源であり、歴史の真実なる導き手であるヤハウエなる神こそが自分たちと共に生きてくださる神であることを思い出し、神に従って生きようと決断しました。けれど神様は人々の思いが一時的なものだと知っておられ、言われます。「主のもとに帰ろう。主に従おうという人々の決断は霧や露のようにはかない。もし魅力的は英雄が現れたら人々は戦争の準備を始めるし、目の前に金銀を積まれたらその金銀を与えてくれる人間に従うようになる」。
戦後の日本の歩みをたどるとき、人間に対して言われた神様の言葉が真実であることが分かります。自分たちの将来は平和しか選び取る道はないと、戦争放棄をうたった憲法を希望と誇りとして歩み出した日本でしたが、1950年には軍事的な組織を作り警察予備隊として発足させます。そして憲法違反ではないかとの問題を解決しないまま警察予備隊は1954年に陸・海・空の自衛隊へ改称し、現在ではアメリカさえも認めるほどの軍事力、アジアの脅威と言われる軍事力となってしまいました。これは「戦争そのものが持つ悲惨さや、戦争が奥深く隠している虚無の恐ろしさ」について、日本人の多くがまともに取り上げなくなってしまっていることを示しているのだと思います。
ホセア書の本文に戻りましょう。神様は人々の決意が一時的なものに過ぎないと見抜かれているのに「わたしはお前をどうしたらよいのか。」と言われます。神様は「自分の命について真剣に考えようとしない人間。自分が神から遠い生き方をしているか気付きもしない人間」を、どう取り扱えばよいのか困り果て、途方にくれておられます。
これは、全能で自由であられる神様が人間と共に生きると決意し、人間のために弱くなられた結果の神の困惑だと言えるのではないでしょうか。天地創造の神様にとって「人間を絶滅させることも、地球それ自体を消滅させることも」、大仕事ではないはずです。人間との交わりを絶ちたくないから、人間に神のパートナーとしての自覚と誇りを持って欲しいからこそ、神様は困っておられるのです。
それでも神様は、すぐに裁きを行わず、人々が愚かで気楽な振る舞いに気づき、神に創られた自分と世界を大切さに気付かせようと預言者ホセアに向かって、ご自分の気持ちを語られます。「それゆえ、わたしは彼らを、預言者たちによって切り倒し、わたしの口の言葉を持って滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる」。神様はイスラエルの人々の代表として神の前に立つ預言者ホセアに向かって、「わたしの口の言葉を持って滅ぼす」と言われるのです。
わたしたちはこの神様の言葉にドキッとします。何処までも人間と共にいてくださるはずの神様が人間を裁くなんて! しかも戦争や嵐でなく神の言葉で裁くなんて! 何が起こるのか?どんな備えをすれば身を守れるのか?。ちゃんと聞いておかなければ。そう思って耳をそばだてます。
そうです。主は聞くことを求めておられます。わたしたち人間が神様の言葉に注意を傾けることを望んでおられるのです。耳をそばだてる私たちに向かって主は言われます。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」
この言葉はホセア書の中心となる言葉だと言われていますので、より深くこの言葉を味わっていただくために、少し言葉の説明をさせていただきます。
まず、いけにえと言うのは、神様の怒りをなだめたり、神様と交わるために神殿に捧げられる屠殺した動物のことを言います。
次に、焼き尽くす捧げ物とは、神殿に捧げられたいけにえ・犠牲の動物が祭壇の上で燃やされ、炎となり、香りを運ぶ煙となって天に住む神様のもとへ昇っていく、と言う考えから生まれた儀式で、人々の献身の気持ちを表したり、神様との理想的な関係を維持するために毎日捧げられたと言われています。
また「神を知る」とありますが、聖書において「知る」と言う単語は、単に知識を得ると言う意味で用いられることは多くありません。ほとんどの場合「結婚して夫は妻を知った」と言うように、相手の全体を知る、相手の内面深くまで分かる、と言う意味で用いられます。最後に神の喜ばれる愛とは、無条件の愛、愛されるにふさわしいかどうかの価値を問わない愛、恋愛のように情熱的な愛のあり方を示しています。
神様はこれから人間にどんな罰を下すのだろうと耳を澄ますわたしたちに向かって、神が人間に求めるのは情熱を持って相手を求める愛であると、裁きとはまったく関係ないことを語られます。
神様はホセアに向かって言われます。「神が人間に求めているのは滞りなく儀式を行ったり、せっせと犠牲の捧げ物を捧げるような形にこだわる交わり、人間の側の自己満足を満たすための儀式ではない。もっと実際的で具体的な交わり。例えば恋人同士が共にいることを喜び、何時何処にあっても相手のことを考え、相手を喜ばせたいと望むような愛に溢れた交わりなのだ。」と。それは「わたしは人間を罰したくない。だから罰せられる前に早く気が付いて欲しい、考え直して欲しい。」という愛のこもった言葉です。
主は言われます。「わたしにとってあなたは何人かを比べたうちでのナンバーワンではない。オンリーワンの存在だ。かけがえの無い大切な存在なのだ。わたしがあなたの先祖に『ともに生きる、祝福する』と約束したのもそういう意味である。だからあなたも、主であるわたしを「掛け替えの無い存在、唯一無二のオンリーワンの神」として愛して欲しい。そうすれば、信頼で結ばれた夫婦が、喜びや悩みを分かち合い苦労を共に担って人生を共に歩むように、神と人間も共に歩み続けられる。神が共にいれば、人は苦難の中にあっても平和を生きる人間に変えられ、周囲の人々の平和のために苦難を引き受けられる人間へと変えられる。そのように神から与えられた命を輝かして生きて欲しい。だからこそ『神を愛し神を知れ』とわたしは言うのだ。」主はそう言っておられます。
古い話ですが、1967年、昭和42年に日本基督教団の議長鈴木正久牧師の名前で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が発表されました。その中に「わたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました。」とあります。
牧師の娘であった私の母は1945年、昭和15年に結婚し夫の実家に入ったのですが、毎朝 姑に従って家のあちこちに祭ってある神棚や仏前を整え拝むことから嫁の仕事が始まったと教えてくれました。これは第二次世界大戦前の時代から、プロテスタント教会が礼拝以外の場で唯一神への信仰を堅持することを求めなかった印です。また主なる神を世界に唯一でオンリーワンの神としてではなく、信仰者個人のナンバーワンの神様で良しとしたしていた印です。その結果、祖国と共に罪に陥ってしまったことを告白している言葉です。ヤハウエなる神を唯一の主とするとき、人はおのずとこの世の見張りとされます。自分の意思で「見張りなんてしない」などと言えません。神の光に照らされて、様々な悪の働きが見えて来るからです。ホセアのこの告白には「自分は神様をオンリーワンとして生きていたつもりだったのに、何時の間にかナンバーワンに格下げしてしまっていたのを悔いるキリスト者たちのくやしさ悲しさがにじんでいます。
神様はわたしたちがどんな思いでいるときも、わたしたち一人一人をオンリーワンとして愛してくださっています。この朝「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」と言う神の言葉を頂けたことに感謝です。オンリーワンの神を崇め、その神に愛されている自らであることを省み、平和の主の見張りとしての使命を生きる群れであり続けるように、祈り求めて行きたいと思います。
祈ります。
憐れみに満ちる神様。
御言葉で養ってくださり、ありがとうございます。
あなたは私たちが犯す罪を罰するよりも、神へ立ち返り、神と共にあることを喜ぶ方であることを教えてくださり、ありがとうございます。
私たちがあなたに背くときには、御言葉によって御元に連れ戻し、具体的な愛の交わりに生きる者としてください。
また、あなただけを唯一、掛け替えの無い神とし、あなたの平和を持ち運ぶ教会、見張りの目を備えた教会としてください。
この感謝と願いの祈り、此の世に平和をもたらすために命を懸けてくださった主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。