エゼキエル2:1−3:4/黙示録10:8−11/マタイ4:18−25/詩編40:6−12
「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」(マタイ4:25)
先週、イエスが洗礼を受ける話が、マタイ福音書と彼が手本にしたはずのマルコ福音書で扱いが大きく違うことを見ました。マタイは洗礼を受けるためにやって来たイエスを前にしてバプテスマのヨハネが逡巡している様を描きますが、マルコはヨハネにほとんど関心を示していないこと、しかし聖霊が下り、天からの声がすることだけを書き記していること。それで充分だと考えたのではないか、と。
エゼキエル書は三大預言書の一つですが、エゼキエル自身は祭司でした。そして第一回バビロン捕囚でバビロニアに連行されたグループに属していました。捕囚の民には祖国ユダの復興への強い望みがありましたが、その希望を打ち砕くつとめに召される。エゼキエルは「祖国の滅亡を語る預言者」とされるのでした。またエゼキエルは幻を見る預言者、幻視体験をする預言者でした。その幻視体験が新約聖書のヨハネの黙示録と呼応しています。両方にあるよく似た記述の一つが、「神の言葉を食べよ」という神の命令です。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」(エゼキエル3:1)。「天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」」(黙示録10:9)。
イエスが洗礼を受けたときに天から降ってきた声は、エゼキエルやヨハネには巻物として与えられ、しかもそれを食べると蜜のように甘い、しかしヨハネには腹に苦いものとなったということでしょう。イエスにとってもエゼキエルにとっても、そしてヨハネにとっても、神の言葉を取り次ぐというつとめが与えられたことを、これらの物語はわたしたちに伝えているのだと思います。
今日お読みいただいた福音書は、4人の漁師がイエスから招かれて彼の弟子になるという箇所でした。彼らはイエスから直接言葉を受けたとき、「二人はすぐに網を捨てて従った。」(4:20)とか「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」(同22)とか書かれています。自分と、ひょっとしたら同居する人たちもいたかも知れないその生活の術である「網を捨てて」、あるいは実際に「舟と父親とを」を棄ててイエスに従ったわけです。その事実を突きつけられると、わたしなどは尻込みするしかありません。そんなに生活の術をすぐに棄ててイエスに従う覚悟などないなぁ、と。ところが、冒頭引用した箇所まで読むと、ちょっと違った印象を受けます。
4人はイエスに召し出されて彼に従ったわけですが、すぐに従ったとはいえすぐにイエスの業を手伝ったとは思えません。彼らを弟子にした直後イエスがなさったことは「イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。」(同24)という働きでした。これは当然ながらイエスご自身がなさったことです。その結果、「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」(同25)というのです。おそらく4人の弟子はこういった出来事を目撃した人ではあったでしょうが、イエスの片腕として力を発揮したわけではないでしょう。であれば彼らもイエスに従った「大勢の群衆」の中の4人だったということではないか。
網や父親をその場に残し、あるいは棄ててイエスに従うというと、わたしにはどうしたって「出家」のイメージがつきまといます。ある覚悟を持って世俗を棄て、世俗を離れて師匠たるイエスに従って修行する。その時点で「大勢の群衆」ではない。しかしどうも福音書を読む限り、焦点は「従う」という事実にあるようなのです。そしてそれが「修行」ではないとすれば、わたしたちには「自由に従う」ということも許されているように思います。つまり、わたしには、わたしに出来ることでイエスに従って行くことが出来る、ということでしょう。
「すぐに」「すべてを棄て」ることができなくても、わたしに出来るところでわたしに出来る限り精一杯従って行くということ。もちろん従う以上は苦労もあるでしょう。エゼキエルのように、人々の希望を打ち砕くために立てられる人もいるのですから。そこまでではなくても、やはり価値観がぶつかり合う、一人ひとりにとってはやはり「修羅場」としか表現出来ないような場面も起こり得るでしょう。でも、弟子であることがある合格ラインをクリアすることではなく、わたしが出来る最善のこと精一杯のことが既に弟子である証しだということなのです。
出来ることは一人ひとり違います。わたしたちはいくらでも代わりが利く社会の歯車ではなく、人権を持った一人、かけがえのない一人です。それはイエスの弟子であるということにおいても全く同じでしょう。わたしにはわたしの出来ることがある。一人ひとりにはイエスに声をかけてもらうに足る、「わたしだからできること」がある。だからイエスはわたしをも召してくださるのです。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)。その言葉に従い、わたしもまたイエスに従った「大勢の群衆」の一人として、イエスのあとについて行きたいのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。わたしの出来ることなどたいしたことではありません。でもわたしがになうべき子と、わたしが担うことの出来るものがあります。あなたはわたしにそれを求めておられます。どうぞわたしの出来ることでもって、主イエスに従イ、神さまを信じて歩むことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。