サムエル上16:1−13a/ローマ6:12−23/マタイ3:13−17/詩編2:1−12
「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(マタイ2:13)
「洗礼を受けた日のことは良く憶えているだろう。でも洗礼を受けた翌日のことを覚えている人はいだろうか。」と問われたことがありました。確かにその通りだと思いました。
わたしが洗礼を受けたのは高校1年生のクリスマス、新潟教会でした。1976年12月19日。会衆派の伝統を持つ教会で洗礼式は滴礼方式でした。セーターの間を伝って頭から流れてくる水が思いっきり冷たかったことを憶えています。でもその翌日、1976年12月20日のことは全く憶えていません。
「翌日のことを覚えている人はいるだろうか」と問うた人は、その理由をこう話します。「洗礼を受けたからといって、目に見えて大きな変化が起こったわけではない。だから翌日のことを憶えている人はほとんどいないだろう。」。全くその通りです。その日のことは冷たい水の感触までありありと思い起こせます。あるいはその二日前、夜に教会で洗礼諮問会が行われ、その帰りのバスで「洗礼を受けたら私は全く別の人になるんだ」と心に誓ったこともありありと憶えています。そこまで意気込んでいたのに、確かに翌日の記憶はない。それまでの一日一日と同じようにその日も流れていたからです。取り立てて心に残るようなことはなかったということでしょう。
でも、だから洗礼を受けたことに意味はなかった、とは思いません。わたしは確かに変わりたかったのです。それまでの自分と決別したかった。新しい自分として生きたかった。当日のことも金曜の夜のことも憶えているのはそのためです。願ったようなその後の日々ではなかったけれども、そのことを記憶から消し去りたいなどとは思いません。それはそのことだけで、まことにささやか、むしろかき消されてしまいそうなほど弱々しいけれども間違いなく、御心に適うように歩みたいと心を燃やした証しです。思うほど力強くはなかったけれど、今もおそらくその思いは変わらない。だから記憶から消し去りたいとも思わないのでしょう。
一夜にして、あるいは一瞬で、それまでの自分が全く変わってしまう、別人のように歩み出すことは先ずほぼないことかも知れません。でもそうなりたいと神さまの前に進み出た事実は残る。全く理解不足だったかもしれないけれども、あの時点ではその思いに偽りなど決してなかった。まさしくわたしの真実の一面に違いないのです。
サムエルが新しい王を求めてエッサイのもとを訪ねたのは、まだイスラエルにサウル王が在位中のことでした。サムエルは契約の民であるイスラエルに今自ら不穏な風を起こそうとしている。だから躊躇います。訪ねたベツレヘムの住人たちも同じ不安を抱いたのでした。サムエルといえども、自分の行いを恐れている。そしておそらく、さっさとこの場を離れたかったのかも知れません。だから目の前に現れたエッサイの長男エリアブがいかにも良さそうなのを見て彼に油を注ごうとします。「しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」」(サムエル上16:7)。
少なくとも当時のイスラエルは、宿敵ペリシテに苦しめられていましたから、王は全軍を指揮してペリシテと戦わなければなりません。戦士にふさわしい容姿を備えていることは王の必然。しかし神は「容姿や背の高さに目を向けるな」と言う。サムエルはその言葉に従う以外になかったのでしょう。結局主は目の前に現れた7人の誰も認めません。
どうして誰も選ばれなかったのか。その理由こそ「主は心によって見る。」と説明されています。これは、洗礼を受けた翌日のことを全く憶えていないわたしに向けられるなら恐ろしい裁きの言葉です。どんなに「御心に適うように歩みたい」と願っても、そんなのは見せかけだけだと見抜かれてしまう。表面上取り繕っても神の前では全く無駄だということでしょう。しかし逆に見れば、普通の人と全く変わらない、いやむしろクリスチャンであるということを公に出来ないような歩みしかしていないとしても、もし主が「心によって」見てくださる、わたしの中にあるかないか定かでない程度の信仰に目を留めてくださるとしたら、この言葉は大きな救いであり、わたしがふたたび立ち上がるために大きな支えとなる言葉かも知れません。
面白いのは、7人とも主の目に適わなかったけれど末の息子がまだ羊の世話をしていて、その子がサムエルの前に立ったとき「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。」(同12)と書いています。結局サムエルはルッキズムを脱しきれなかったのではないか、「主は心によって見る。」のじゃなかったのかと思ってしまいます。まぁサムエル記は「ダビデ大好き」グループによって編まれた書物ですから、当然彼らにとってダビデはエリアブなんかよりずっと、そして王サウルより遙かに見た目においても信仰においても実力においても高く評価されなければならない存在なのでしょう。ま、だからわたしはあんまりダビデにぞっこんとはいきません。どうしたって批判的にしか見られない。
イエスの洗礼の記事においてもそうかも知れません。マタイはイエスに対して特別なバイアスをかけている。その証拠に、マタイが手本としたマルコ福音書のイエスが洗礼を受ける場面など実に素っ気ないです。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に 降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(マルコ1:9)。バプテスマのヨハネの逡巡なんてまるで書きませんし、むしろマルコはヨハネにほとんど関心がないかのようです。でも洗礼を受けたとき聖霊が降ってくるのを御覧になった。そして神の声を確かに聞いた。それで充分なのでしょう。
わたしも確かに「御心に適うように歩みたい」と真実に思った。情熱のように燃えさかり続けはしないけれども、神さまはわたしの中にその信仰を認めていてくださるに違いない。いや、たとえ認めていただくようなことは何ひとつ出来なかったとしても、それでも神はわたしに「生きよ」と言葉を下さるに違いない。そのことひとつを糧として、今週も歩んで行きたいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたはわたしの心をご存じです。その上でわたしを赦し、贖い、導いてくださいます。そのあなたを全く信頼して歩むことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。