エレミヤ31:15−17/Ⅱコリント1:3−11/マタイ2:13−23/詩編70:1−6
「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(マタイ2:13)
今日与えられた聖書の箇所を3つ並べてみると、そのどれにも「苦難」という現実が重くのしかかっていることがわかります。エレミヤには「苦悩に満ちて嘆き、泣く」ラケルの声、第2コリント書には直面する「あらゆる苦難」、そしてマタイ福音書では虐殺される子どもたちとその家族の嘆き。
新年最初の礼拝ですから、「明けましておめでとう」という挨拶の中でおめでたい気分を微塵も感じさせない箇所が選ばれているわけです。なかなかに戸惑わせる箇所だと思います。ですが、わたしたちの現実を振り返れば確かに、苦難のない新年を迎えたことなどほとんど記憶にないと断言出来ます。
今年は2025年、21世紀を迎えて四半世紀になります。しかし21世紀が明けたあの年は米国同時多発テロと呼ばれる衝撃が世界中を駆け巡り、冷戦が終わって世界が平和な未来──21世紀を手に入れるのではないかという淡い期待をみごとに打ち破る日々が始まりました。冷戦どころか人が人を殺し合う本当の戦争が続き、この25年間片時も休まることはありませんでした。加えて人間を取り巻く自然が激変し、簡単には信じられないような自然現象が多発するようになりました。昨年の元日には能登地方を巨大地震が襲い、その同じ場所に秋には集中豪雨が襲い、復興どころではない、今だに避難生活が続いています。避難生活と言えば、東北地方太平洋沖地震から13年を経て、人類最大の原子力事故を起こし、その被害が引き続いていることが全く報道されなくなりました。もうすでにすべて克服されているかのような勘違いがまかり通り、辛うじて運転が止まっていた原子力発電が次々再開され、それだけでなく新規に建設も進めようという空気です。
結局、わたしたちが平凡に暮らせる国であり世界であって欲しいという願いは、こうしていつも希望で終わり、潰されてしまうのです。だからかも知れないけど、人間関係はますます疎遠になり、他者と関わるよりは極めて狭い範囲、自分にプラスアルファ程度の範囲が平穏であることを何よりも望む狭い視野で暮らすこと、その中でのしあわせのみを追求するようになっている。ますます他者との間に溝や壁が出来上がってしまいそうになるわけです。
マタイで引用され、エレミヤ書に書かれているラケルの泣く声は、エレミヤ書全体で見れば「約束と慰め」の書の中にあります。ラケルとは族長ヤコブの妻の一人のことです。ラケルはヨセフとベニヤミンの母です。もともとベニヤミン領であるラマで嘆きの声を挙げているということですから、北イスラエルの生みの親であるラケルがその子どもたち、つまり北イスラエルが滅ぼされ囚われの身となっていることを嘆いているということです。では北イスラエルの民が囚われの身になっていることがどうして「約束と慰め」の中に置かれているのか。それは、民に対するエレミヤの語りかけがそもそも、希望とは裁きのあとに到来するもので、神からの救いや傷の癒やしや慰めや歓喜、赦しはそこから始まると説いているからでしょう。神の裁き故にラマで嘆きの声は挙がる、けれどもそれこそが神の赦しのしるしなのだ、という理解です。その嘆きの中からこそ、本当の希望が生まれると言いたいのです。
このことばを引用したのがマタイでした。ラケルはヨセフの母であった。そしてこのヨセフは、兄弟たちの悪い計画によってエジプトに売られてゆくわけですが、それがイスラエルを救うために神によって用意されたことであったというのが創世記の終わりの物語です。ヨセフの力によってイスラエルはエジプトで存えることができた。それだけでなくエジプトもまた飢饉を脱したのです。ところが、ヨセフのことを知らないものがエジプト王になると、イスラエル民族を迫害するようになる。ついには生まれる男の子をすべて殺すように命じるのでした。
マタイは、ヘロデ王が赤ん坊のイエスを殺害するためにベツレヘム周辺の男の子の虐殺を命じたとしました。これはほぼ歴史的な事実ではないと考えられていますが、その分、ヘロデ王の残忍な性格をより浮き彫りにしたのだとも言われています。ヘロデはこのような命令を出しはしなかったけれども、ヘロデなら出しかねないと思われるような王だったのは事実なのです。そしてイエスはヨセフの咄嗟の判断により難を逃れることになった。しかしこの聖家族が去ったあとのベツレヘムには嘆きの声が溢れた、というのです。
最初に申しましたように、苦難が続くとわたしたちは声を挙げなくなるのです。なぜならわが身を守ることで精一杯だからです。不正に喘ぐ隣人のために、自らを賭して声を挙げるなんてバカらしいことだと思ってしまう。狭い視野の中のしあわせのみを追求する、そんな人間になっています。自ら声を押し殺さなければ、損な役回りを担ってしまう。圧倒的な権力によって声を押し殺されるまでもなく、自ら口を噤んで暮らすようになる。その行き所のない闇は、匿名の世界での暴言となって憂さを晴らすだけになる。それが本日ただ今わたしの生きている世界です。
様々な厳しい現実は確かにある。けれども、神はそのわたしたちの押し殺された、押し殺した声を必ず聴いてくださる。神は無関心ではおられない。その神さまの約束を携えて、キリストがお生まれになった。「あなたの未来には希望がある、と主は言われる。」(エレミヤ31:17)。今年、そのことばを取り次ぐ者として、与えられた日々を生きて行きたいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。新しい年を迎えました。わたしたちを取り巻くあらゆるところに嘆きが満ちています。その嘆きの中で、わたしたちは小さな視野に貶められ、他者を思う気持ちを奪われています。もはや希望も無くなってしまったかに見えます。しかしあなたはわたしたちに向かって「あなたの未来には希望がある」と声を挙げられました。そのあなたの声に信頼して歩む者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。