イザヤ60:1−6/エフェソ3:2−12/マタイ2:1−12/詩編27:1−6
「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2:11)
東の国の博士たちは、古くから多くの芸術家たちの心を刺激し続けてきたようです。たくさんの絵画や彫刻、文学作品がこれを題材として生まれました。彼らを歌う賛美歌も多数あります。6世紀頃にはこの博士たちが3人で、ガスパール、メルキオール、バルサザールという名前を持ち、20歳と40歳と60歳で、白人と黄色人と黒人だったということが定着してゆきます。それぞれ出来すぎた話が定着して来たわけですが、それを言うならクリスマス物語自体が出来すぎた話なのであって、そのどれもが「もし神さまが人間の世界に介入し、世を救うために救い主を与えてくださるとしたら、どういう物語が最も相応しいだろうか」という思いが反映されているのだとしか言いようがありません。書かれていることが事実なのかフィクションなのかが、事柄を判断する際に意味を持たない、むしろ意図を持っているということなのでしょう。
アメリカの作家ヘンリー・ヴァン・ダイクは「もう一人の博士」という本を書きました。1895年のことです。
ダイクはこの小説で第4番目の博士アルタバンを誕生させました。彼は3つの贈りものを持って他の3人と待ち合わせますが、途中瀕死の男を助けたため、待ち合わせに遅れてしまいます。しかたなく一人で砂漠を旅する道具を揃え、その費用として宝物の一つを売ってしまいます。
ベツレヘムに着くとすでに幼子はその場を離れてしまっていて、ヘロデの兵隊が子どもたちを虐殺してまわっていました。彼はもう一つの宝を差し出して一人の幼児の命を救います。
そこから長年に亘り行く先々で人助けをしながら旅を続け33年。ようやくたどり着いたエルサレムでイエスが処刑されることを知ります。急いでゴルゴダへ向かう途中、若い女性が奴隷として売られるのを見て、それを救うために最後に残っていた宝物を手放します。その時イエスが十字架で息を引き取り、激しい地震が起こって瓦礫がアルタバンの頭上に落ちる。息を引き取る間際のアルタバンにイエスの声が聞こえてきた。そういうお話です。
これはおそらくそのままヴァン・ダイクその人の人生を写し取っているようです。ダイクの友人であったヘレン・ケラーがダイクについて書いている言葉があります。「ヴァン・ダイク博士は、人が困難な問題に直面した時に持つべき友人のようなものである。誰かのため、あるいは自分が興味を持っている大義のためであれば、彼は昼夜を問わず労を惜しまないだろう。」。
もう一つ、多くの人に愛されている「ベン・ハー」という映画があります。元々はアメリカの小説家ルー・ウォーレスが1880年に発表した長編小説ですが、舞台化されて何度も上演されます。圧巻は1959年にチャールトン・ヘストン主演でウィリアム・ワイラーが監督した映画です。この中に3人の博士の一人バルサザールが3つの場面で登場します。
最初はアラブの族長の客として。ベン・ハーのまなざしに殺意を見出した彼は「わたしは星のみちびきでベツレヘムへ行った。そこの馬小屋で生まれた赤子の中に神を見た。…神に至る道は種々ある。険しくないと良いな」と声をかけます。
2回目はイエスの教えを聞こうと群衆が山に向かうその列の中で。ベン・ハーにも一緒に話を聴きに行こうと誘います。しかし頑ななベン・ハーに悲しみのまなざしを向け別れを告げます。一人歩き出すベン・ハーを山の上から人々に教えるイエスが見つめておられる、印象的なシーンです。
最後はイエスが十字架にかけられるのを見ているバルサザールに今度はベン・ハーから声をかけます。「残念なことだな。…なぜ死刑になる?」と。するとバルサザールは答えます。「皆の罪を持って行って下さるのだ。そのために生まれたと仰っていた。最初に出会ったときに。その目的でこの世に現れなさった。」「死ぬためにか?」「いや、これが始まりだ」。
東方の博士の物語がどうしてこれほど多くの人に愛され、語り継がれ、多くの絵や彫刻や作品につくられ、書き改められてきたのか。それはおそらく、博士たちの行為が、わたしたちすべての人の手本だからなのではないでしょうか。幼子を拝む。ユダヤ人ではないけれども、神の救いの業を幼子に見出した者は、自分のすべてを献げてその幼子を拝む。わたしたちの究極の手本とするべき姿を彼らの中に見出すからなのではないか。
アルタバンやバルサザールのように、わたしも自分の生涯を通して拝むべきものを拝むものでありたい。その思いを新たにするのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。星の光に導かれて幼子を捜し当て、持てる宝を差し出して拝んだ博士たちのように、わたしたちもそれぞれの生涯という旅の中であなたに出会い、あなたを見出して、生涯をかけてあなたを拝み、与えられたいのちを歩み続ける者としてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。