イザヤ7:10−14/黙示録11:19−12:6/マタイ1:18−23/詩編46:1−12
「イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:13−14)
新約聖書に4つある福音書で一番古いのはマルコによる福音書です。紀元70年頃だそうです。イエスの死後およそ40年も経っています。イエスの行いや言葉はいろいろな伝承として保存されていたのでしょう。中にはお伽噺のようなものもあったに違いありません。それをマルコは十字架での虐殺と死からの復活という点に絞って伝承を整理し「福音書」という文学ジャンルを打ち立てます。尤も本人にはそんな文学的な意図はなかったのでしょう。どうしても伝えたいことがあった。
マルコ福音書からおよそ20年ほどを経てマタイ福音書やルカ福音書がつくられます。マタイなどはほとんどマルコ版の増補改訂版ですが、マルコが敢えて採用しなかった伝承も書き込み、イエスは聖書、わたしたちが呼ぶところの旧約聖書の預言の成就であることを書き表しました。ルカ福音書は、キリスト教がローマ帝国にとって脅威でもなんでもないことを証明するために、できるだけ順序正しく正確に書いて総督に献呈しようとしました。すでにイエスの死後60年以上経っていますから、ユダヤ教イエス派からキリスト教という新しい宗教となっていたので、イエスから始まって教会が誕生し、今に至るまでを上下巻に分けて書いたのです。
ここからは全くの空想ですが、イエスの教えや生き様が広まり知られるようになると、イエスはどういう子どもだったのか、どこで生まれたのか、どういうふうに生まれたのかを知りたいという欲求も深まっていったのではないでしょうか。マタイやルカが福音書を書く頃にはそういう欲求を無視出来なかった。そこで彼らは、「もし神さまが人間の世界に介入し、世を救うために救い主を与えてくださるとしたら、どういう物語が最も相応しいだろうか」と考えて考えて、考えた末に伝承を整理し自分たちの神学を加えて物語を編みだした。
ところが、そうやって物語を編み始めたときに無視出来ない大きな問題があった。それはイエスがマリアの子どもだということが知れ渡っているということです。つまり「イエスなんて父親が誰かもわかっていない輩」という評価です。マルコ福音書には「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(6:3)と、イエスの故郷の人々が口にした言葉を記しています。
イエスは聖書に預言されていた救い主であることを証明しようとしたマタイは、イエス誕生の物語を編むときにイザヤの預言を写し取ります。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(マタイ1:22−23)。この預言の言葉を写し取ることで、イエスがマリアの子であることが神の意図であるとしたのです。そこから誕生の物語が一気にまとまっていったのではないか。そんなことを空想するのです。
ところで、ヨセフは「正しい人であった」(19)といいます。不思議なことにこの正しいヨセフに主の天使は「恐れるな」と言う。激しい恐れが、表面上の正しさによって辛うじて隠されていたのでしょう。だから夢にまでうなされる。正しさの根拠は自分の行いにあるからです。しかし、自分の行いをパーフェクトと言い切ることは出来ません。ヨハネ福音書が伝える姦淫の女の物語にあるとおりです。「しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」」(ヨハネ8:7)。自分の行いを根拠にしている限り、わたしたちは恐れから解放されることはないのでしょう。しかし、今目の前に起こっている現実を、それこそが神の御心だと信じる時に、ヨセフは恐れを乗り越え、すべてを受け入れることができた。そして福音書はその後ヨセフが一言も語らないことを通して、揺るぎないヨセフの信仰、すべてを受け入れる覚悟を、書かないことで表したのかも知れません。
イザヤはシリア・エフライム戦争で南ユダ王アハズがイザヤの進言を聞き入れずアッシリアに助けを求めたときに語ったのが冒頭の言葉です。「イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」。これを救い主誕生に結びつけたのはマタイですが、どうもイザヤにそのような意図はないようです。既婚の若い女性が男の子を産んだ。戦争の危機を脱して子どもが生まれてきたことを喜び、「神が共にいてくださる」と神に感謝した、という話に過ぎません。この子が力を振るってユダを救済する人になるなんていう意図はないのです。
しかしマタイがやっちまったこの大いなる誤解のおかげで、伝えられたクリスマス物語は、わたしたちに対して新しい展開を見せることになったのです。神が、まことに一人の人間になった。罪ある人間の一人に数えられた。その人が無原罪であろうとなかろうとそんなことには全く関係なく、その人を産んだ母が無原罪の乙女であろうと姦淫の女であろうとそんなことには全く関係なく、神がまことに人間となったその事実を通して、「神は我々と共におられる」という言葉がわたしたちの真ん中に宿ることとなったのです。その出来事こそクリスマスなのですね。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。自らの力では正しくあることのできない人間を救うために、救い主をまことの人間として罪ある人間の一人に数えられてしまうこの世に送ることこそが、あなたの御心であることを知らされました。そのようにしてまで、このわたしをあなたが贖いとってくださった。その事実を憶えつつ歩む者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。