イザヤ59:12−20/ローマ16:25−27/マタイ13:53−58/詩編96:1−13
「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。」(イザヤ59:20)
先週は第1イザヤの時代を読みました。アッシリアが隆盛を極めて、様々な戦争の時代を経てついに南ユダ王国が包囲され、陥落寸前までいったのがイザヤの時代でした。
今日お読みいただいた59章は既に第3イザヤの時代に入っています。そこで先ず第2イザヤの時代を観てみたいと思います。
第1イザヤと第2イザヤの間にはおよそ1世紀の間が空いています。アッシリアは衰えを見せ、それに代わってこの地方の覇権の獲得したのは新バビロニアでした。聖書にも登場するネブカドネツァル2世の時代が最も繁栄した時期です。このネブカドネツァルによって南ユダ王国は滅ぼされ、いわゆるバビロン捕囚となったのです。ネブカドネツァルの死後帝国は急速に衰え、覇権はペルシャ、その初代キュロス王がバビロニアを滅ぼします。どうもいわゆる無血入城だったらしいです。それほどバビロニアが衰えていたということでしょう。このキュロスがバビロン全住民を集め、彼らにその住居を返したのでした。この王の命令により、イスラエルも捕囚から解放されたのです。
しかし、50年以上バビロニアで生活をしていた人たちの多くはバビロニア・ペルシャに留まることを選び、ユダヤ人が世界にちりぢりになるいわゆるディアスポラがこの時代に始まったのでした。これが第2イザヤの時代、つまりバビロン捕囚末期から捕囚解放とエルサレム帰還に至る時代ということです。
第2イザヤは、イスラエルをバビロンから解放するキュロス王をヤハウェによって油注がれたメシヤだと期待していました。しかしキュロスはバビロンの主神であるマルドゥクを自らの神として崇めます。そのため、第2イザヤの期待とその預言は敗れ、神による救済は遠のいてしまいます。そこで、真の救済は捕囚から解放され、祖国に帰り、祖国を再び起こすことによって完成すると告げるのですが、先に言いましたように、ユダヤ人の多くがユダに帰ることを選ばず、バビロンで築き上げた豊かな生活を選んだのです。預言者の苦難がそこにありました。その苦難が有名な「苦難の僕」の歌を詠ませたのかも知れません。
そうして第3イザヤの時代に入ります。バビロニアに残った人たちの予想通り、帰還と王国復興は困難を極めます。ユダ王国跡地には人々が連れ去られたあとに残った人やユダヤを属国としていたサマリヤ人などの執拗な妨害もありました。そういう厳しい時代に、ペルシャの支援を受けて5年の歳月をかけて神殿が再建されます。これを梃子にして、メシア王国が始まると預言したのがハガイ・ゼカリヤでした。しかしその預言も成就を見ず、ただ成果と言えるのは、神殿祭儀が復活し祭司制度によるユダヤ教の再建だけ。この第二神殿と祭司制度が、イエスの時代にも力をもっていたことは良くわたしたちも知っていることです。その神殿祭儀も形式化し、異邦人とのいわゆる雑婚も歯止めがきかなくなっていました。この時代にユダヤ教改革を行ったのがエズラ・ネヘミヤです。彼らは先ずエルサレムの城壁を修復し、サマリヤから独立を勝ち取り、ユダヤ教の教えを強めて安息日の遵守や雑婚の禁止を主張して民衆を指導したのです。
だから、第3イザヤの時代は、神殿再建を巡っての熱い期待と、その熱さに比例した深い失望の上に引き起こされる様々な預言者が、それぞれの思いをもって預言活動をしていた時代ということかも知れません。
そういう背景を考えながら与えられた59章を読むと、「わたしたちの背きの罪」(12)や「主に対して偽り背き/わたしたちの神から離れ去り/虐げと裏切りを謀り/偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。」(13)という言葉の背景も理解出来ます。そしてそういう現状を誰よりも神ご自身が驚いてごらんになっているというのです。神ご自身が嘆き、17節以下では神自ら先頭に立って戦い、報復する。だから人々はその神を畏れるのです。しかし、「主は贖う者として、シオンに来られる。」「ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに」(20)、と。
この部分を、岩波版旧約聖書の「イザヤ書」関根清三先生の訳に依ればこうです。20節「「しかし、シオンには、ヤコブの中の、背きの罪を悔い改める者のもとには、贖い主が来る」、とヤハウェの御告げ。」。
神ヤハウェの熱情は人々を恐れさせるもの。だけれども、自らの背きの罪を悔い改めようとする者には、神ご自身が贖い主としてその人のもとを訪ねてくださる、というのが第3イザヤの信仰だということでしょう。
アドヴェントの第2週、二つ目のろうそくに灯りを灯し、主の到来を待ち望むわたしたちに与えられた「旧約における神の言」とはそのことを指しているに違いありません。神が贖い主として、自らおいでになる。自らの背きの罪を悔い改めようとする者のもとに。アドヴェントを過ごすわたしたちが、自らの背きの罪を悔い改める者であるのかどうか。今一度自分を吟味する必要がありそうです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。わたしたちはそれぞれに神さまあなたに期待をかけています。それがあなたのご計画とは無関係であっても、わたしたちはわたしたちの望んだとおりの道で救われたいのです。そのようなわたしたちの現実をあなたは嘆かれます。幸いなことに、神さまあなたは嘆かれるだけではなく「背きの罪を悔い改める者のもとには、贖い主が来る」とお告げになりました。その言葉を信じる者となることが出来ますように。このわたしをして「自らの背きの罪を悔い改めようとする者」に生まれ変わらせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。