イザヤ2:1−5/ローマ13:8−14/マタイ24:36−44/詩編24:1−10
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」(イザヤ2:3)
今日お読みいただいたのはイザヤ書2章の冒頭です。ここには「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。」(1)という表題が掲げられています。ところが、これと同じ言葉が1章1節にもあります。「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。」(1:1)。さらに言うと13章1節にももう一度表題が出てきます。「アモツの子イザヤが幻に見た、バビロンについての託宣。」(13:1)。
イザヤ書は全く違う時代区分で少なくとも3つのパートに別れているということは何度かお話ししましたが、そのうちの第1イザヤだけ取り上げてもとても大きな書物で、それもまたいくつかの時期に分けられるということが表題が3つもある理由なのだと思います。1章1節は、イザヤ書が今わたしたちの手に取っているような最終形式に纏められたときに全体の表題としてつけられ、今日お読みいただいた2章の表題は2章から12章までのひとまとまりの預言集の表題だと考えられます。
ここ2週間ほど、イスラエル特に南ユダ王国の歴史について触れてきました。ヨシヤ王の申命記的改革と、預言者ミカの時代のことでした。時代が遡ったり前後したりで、なかなかわかりにくい話しだったと思います。
幸いイザヤ書は先ほど言いましたように大きな書物で第1イザヤだけでもある期間を通して語られていることでもあり、それを辿ることがこの時代を理解するのに有益かも知れません。
イザヤは表題の通り「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世」に預言したのですが、6章には「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」と始まる、イザヤの召命の記事があります。ですからウジヤ王の死後からヒゼキヤ王の晩年のアッシリアが南ユダを包囲する頃までが第1イザヤの預言した期間だと考えられます。
この時代イスラエルを取り巻く世界の盟主はアッシリア王ティグラト・ピレセルでした。彼はパレスチナ地域に盛んに兵を進めあちこちを侵略しては貢ぎ物を求めていたのです。それに対して小国が同盟を結び、特に北イスラエル王ペカとアラムの王レチンが指導的役割を果たし、南ユダにも加わるように要請します。その時代の南ユダ王はアハズでした。彼は同盟に加わることを拒否し、ペカとレチンはアハズと戦争します。これがシリア・エフライム戦争と呼ばれています。南ユダ王アハズはこの危機にイザヤが反対しているにもかかわらずアッシリアに援助を求めたのです。その結果アラムも北イスラエルもアッシリアによって滅ぼされます。
アッシリアの王はティグラト・ピレセルからシャルマネセル、そしてサルゴンに変わりました。このサルゴンの時代にペリシテの諸都市がエジプトの支援を得て同盟を結び、南ユダにも参加が求められます。この時もイザヤは反対し、まだ若かった南ユダ王ヒゼキヤはイザヤの進言に従います。同盟はサルゴンによって鎮圧されました。
そののちアッシリアはセンナケリブが王となり、その期に乗じてヒゼキヤがバビロニアのバルアダンと共謀して叛乱を起こします。イザヤは反対しましたが、今度はヒゼキヤがその進言を受け入れず、先ずバルアダンが鎮圧されます。ヒゼキヤはエジプト王シャバカに助けを求めたのです。その事態にアッシリアのセンナケリブは南ユダ王国を包囲し、破滅に瀕したのです。そこまでが第1イザヤの時代のパレスチナ地域の世界史です。
こうしてみると、第1イザヤの時代は戦乱の時代だったことが良くわかります。預言者の視点では、王をはじめイスラエル市民が神ではなく他の力に頼り、ひいては国が滅ぶ危機を呼び込んだという王政批判に終始しますが、市井の市民にとっては、次々と戦争が起こり、その度に混乱が広がり、自分を取り巻く世界が刻々と悪い方に変化し続けている時代だったのです。果たしてこの暗黒時代に本当に朝は来るのか。人々が欲する夜明けは、本当にやって来るのか。そんなわたしたちの想像を遙かに超えた重苦しい時代です。その重苦しさの中でイザヤは語ったのです。「多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。」(2:3)。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」(同4)「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(同5)。
これらの言葉を「お花畑だ」と呼ぶことなど出来るでしょうか。暗黒のただ中で、夜明けが来ることなど誰も、微塵も、信じられないような中で、しかしイザヤは「主の光の中を歩もう」「わたしたちはその道を歩もう」と語り続けたのです。
翻って、21世紀のわたしたちの時代を思います。どうやらわたしたちも、「明日は今日より良い」とは単純には思えない時代を生きています。世界の至る所で紛争や戦争が起きていて、経済という恐ろしい皇帝にすでに支配されつくしている中で、さらに厳しさだけが逼迫している気がしてなりません。しかし、わたしたちはまだ暗黒の時代に突入しているわけではない。つまり、暗黒に突入する前にやるべきことが残されている、そういう時代なのではないでしょうか。イザヤはすでに暗黒のど真ん中で主の光を掲げ続けたけれど、わたしたちはまだ暮れ始めた世界にいるのです。
一本だけのろうそくの光は、まことに儚い小さな光に過ぎません。しかしわたしたちには光の道がすでに示されています。神のご計画の中で、わたしたちにはすでに夜明けが与えられているのです。その夜明けを確かなものにすることこそ、わたしたちが今生きていることの意味なのだと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。1本目のろうそくに灯りを灯し、主イエスのご降誕を待つ期節に入りました。この時代に主イエスを迎えることの意味を考えまた味わいながら過ごす日々となりますように。今生きているわたしたちが、この時代に、神さまから与えられているなすべきつとめをなすことが出来ますように。あなたが与えてくださった務めを果たす力を、何よりあなたが与えてくださいますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。