申命記18:15−22/使徒3:11−26/マタイ5:38−48/詩編77:17−21
「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」(申命記18:15)
「申命記」という表題の文字はなかなか面白いですね。想像がつきますがこの表題は漢語の聖書から取られたものです。「申」は「再び」という意味があり、「命」は律法を表します。ですから「申命記」とは「再び記された律法」というような意味です。今日お読みいただいた18章の少し前、17章18節19節に「彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。」と書いているのですが、この「律法の写し」というところを、ヘブライ語からギリシャ語に翻訳したいわゆる70人訳聖書が「第2の律法」と間違って訳したために、以後この70人訳の表題が継承されて「deuteronomy」「再び繰り返す律法」「申命記」と呼ばれたままになっています。
南ユダ王国の歴史の中で「申命記的改革」を行った王がいます。ヨシア王です。当時ユダ王国はアッシリアに従属していたのですが、アッシリアの衰退に乗じて一時期ユダ王国が独立を回復します。それがヨシア王の時代でした。彼はこの期に乗じて王国を立て直すために、宗教的ナショナリズムを刺激する政策を行うのです。列王記の記述に依れば、神殿の修理を行っている最中に大祭司ヒルキヤが壁に埋まっていた律法の書を発見します。それを読み聞かされた王は「我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ。」(列王下22:13)と、再び律法に立ち帰ることを決意したということになっています。
この時発見されたのが、現存する申命記の5章から28章ではなかったかと推測されていてこの箇所を「原申命記」などと呼ぶのです。その核になる部分、「原申命記」の前にモーセの演説が1章から4章まで配置され、「原申命記」の後ろにはモーセの別離の言葉が配置され、今わたしたちが手にしている「申命記」となったようです。またこの「原申命記」には、序にあたる部分が5章から11章まであり、その後26章までがいわゆる神との契約をまとめていて、最後に祝福と呪いが27−28章に配置された構造となっています。
というわけで今日お読みいただいた箇所は「原申命記」の中心である神との契約の条項の中の一つだということがわかります。
こうやって申命記の構造やその成立を考えると、先週お話ししたようにイスラエルは自分たち民族の出発点をアブラハムに置く歴史とモーセによるエジプト脱出に置く歴史と二つを持っているのだけれども、やはり明らかにエジプト脱出の方にリアルな力点があるのだとつくづく思います。まず王国の権威があって、その王国の権威を跡づけるためにモーセによる出エジプトの歴史が生み出された。そもそも旧約聖書の最初の5つをわざわざ「モーセ5書」と呼び習わしていること、しかもその5書の最後に、いわばモーセの遺言として厳格に守られなければならない神との契約の律法が再び書き記されている、しかもそれが王国の繁栄と没落という歴史上の事実を経験した上でここに再び纏められているということが何を意味するのか。「正しい歴史」とは、いわば力わざで編纂された歴史です。しかしそれが「正しい歴史」て語り継がれれば語り継がれるほど、その重みを更に増し加えることになっていく。そうやってモーセ5書の「権威」が確立されてきたのです。
そしてその「権威」は実際その時々に預言者が立てられることで永続してきたのです。その預言者の職務を今日の箇所ではこう規定しています。「彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。」(18:18)。つまり神から言葉を預かって民衆にそれを告げる者は、言葉そのもの、つまり神ご自身を預かっているのだ、ということでしょう。だから「彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。」(19)と神が言うのです。預言者の言葉に聴き従わないということは、人間であるその預言者の属性にではなく、彼に言葉を与えた神ご自身に逆らうことになるからです。そうやってモーセの権威が預言者の権威によって補強され、さらに固められた。
一方逆に預言者にも制限が加えられます。それが「その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。」(22)。つまり、のちに歴史が証明すると言うのです。だが、歴史は別のことを証明しました。つまり、権力を握った者は、何としてでもその権力を永遠に我が手に留めようとする。王も預言者もそうでした。それゆえに王国は滅んでしまいました。それこそが明確な証明になった。神の名を騙り権威を補強したところで、やはり滅ぶものは滅ぶ。人間の浅はかさを凌駕する神、歴史を導く神の本領はそこにこそあるのかも知れません。
ヨシア王晩年に、世界は新興軍事大国バビロニアの脅威にさらされていました。エジプトのネコ2世はアッシリアの残存勢力を支援してバビロニアに対抗しようと兵を挙げます。出兵にあたってどうしてもパレスチナを通らなければならないわけで、ヨシア王に平和に通過させてくれるようにと使者を送ります。ところがヨシア王はエジプトの進軍を阻止しようと自ら出兵し、戦い、メギドで敵の矢を受けて戦死、申命記的改革はその途上で破綻してしまいます。王を失った王国はあっという間に混乱が始まり、やがてバビロニアによって国が完全に滅んでしまうのです。
わたしたちは神の救いのご計画を知る者たちです。わたしたちがそうされたのは、わたしたちが優れているからではありません。わたしたち自身にそもそも権威などないし、その必要もないのです。ただ神は決意なさったことを必ずこの世に起こされる。わたしたちに知らされているのはただそのことだけです。ただそのことのために神さまはわたしたちに言葉を預けてくださっているのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたの権威を自分のものにしようと企む人間の手によって、あなたのご計画はいつもねじ曲げて伝えられます。あなたが与えてくれるという事実の前に、いつも謙遜でいることが出来ますように。あなたの選びに謙遜をもって応えることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。