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2024
10Nov

「再  び」滝澤 貢牧師

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創世記13:1−18/ガラテヤ3:1−14/マタイ3:7−12/詩編105:1−11

 「そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった。」(創世記13:4)

 先日北支区社会部の連続学習会がこの四谷の教会で行われました。第2回目の講師は砧教会の金井美彦牧師でした。彼は旧約聖書の研究者です。「モーセ五書におけるシオニズムの起源─自由と解放の影としての粛正と殲滅の思想を再考する─」という、一見するととても難しい講演に見えますが、お話はとてもワクワクする内容でした。ものすごくかいつまんで一言で内容をまとめると、旧約聖書には様々な思惑によって編集された文書が集められている、ということでした。
 どいういうことかと言いますと、例えば今日お読みいただいた創世記はアブラハムの物語の一部です。先週お話ししたとおり、神がアブラハムを選び、アブラハムはその神を自らの神とした、わたしたちの信仰の出発点とも言える物語です。しかしユダヤ/イスラエルの歴史は、このアブラハムを起源とするお話と、モーセがリーダーとなってエジプトの抑圧から脱出する物語と、二つの起源を持っています。どうして自分たちの民族の歴史の起源を二つも持っているのか、ちょっと考えると不思議ですが、それこそ「様々な思惑」が表面に表れている一つの証拠だと考えられるわけです。
 そんなふうに聖書を読み解いてみると、「旧約聖書」と呼んでいる一冊の本は、そもそも39の書物がまとめられたものであり、少なくとも39の意図を持ってそれぞれ書かれていることに加え、そもそもそれが一冊になるという時点で順番から何から周到に考えた編集者の強い意図があるということです。そして見た目一冊ではあったとしても、そこにはどうしたって一致できなかった正反対の思想もまた留められています。だから、力点をどこに置いて読むか、読む人の思想もまた問われるわけです。
 わたしたちの教団は日本基督教団信仰告白を持っていて、その中で「聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」と告白していますが、そもそも「誤りなき規範」と断じることは神学的には無理があるということでしょう。
 そういう前提で、今日のアブラハム物語を読んでみたいと思います。神さまの祝福は「豊かな富」として表れます。少なくともイエスの時代のユダヤ人、イエスの論敵たちでもそのように考えていることを読み取れます。しかし今日の箇所は、アブラハムがその祝福によって「非常に多くの家畜や金銀を持っていた」(2)ことが問題を引き起こしています。そもそも彼がたくさんの富を得たのは、美しい妻サライを妹だと偽って、妹ならばとエジプト王が宮廷に引き入れたその身代金もしくは婚礼支度金がもとでした。ウソをついてサライを辱め、エジプト王を瞞した、つまりアブラハムの罪故の富だということも出来るでしょう。罪によって得た富が次の問題を引き起こす。これはとても興味深いことです。
 富がもたらした新たな問題は「その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。」(6)ということです。そこでアブラハムはロトと別れて暮らすことにしますが、甥であるロトは目上のアブラハムへの尊敬よりも、自分とその家族の安寧を第一に当然ですがよりよいと思われる土地を選びます。アブラハムに残されたのはより条件の悪い土地、荒れ野だった。自分のついたウソによってロトと別れなければならない、しかもより条件の良い土地を失ってしまう。メンタルズタボロです。
 しかし神はそんなアブラハムに再び声をかけるのです。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。」(14−16)。これをどう考えたら良いのでしょう。有り余る富がアブラハムを苦境に陥れたのに、神はそんなアブラハムをますます富ませ、豊かにし、数え切れないほどの子孫を与えるというのです。
 以前わたしは、どれ程落ち込んだとしても神はアブラハムを見捨てなかったというふうにこの箇所を読んできました。しかし、よくよく読んでみるとそんな単純な話ではないです。富は問題を引き起こす源なのです。アブラハムの時代もイエスの時代も現代も。きっと富は様々な問題・難問をわたしたちに突きつけ続けるのです。だからわたしたちはよくよく考えて富と向かい合わなければならない。単純に「神の祝福=富」ではないことを、神ご自身がこの箇所でアブラハムに──つまり大いなる父、すべての民の父であるアブラハムに、示しているのですから。
 わたしたちが富に対するべき態度、それは殺人事件を引き起こしたカインに対して神が仰ったことと同じではないでしょうか。「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(創世記4:7)。
 アブラハムがこのことに遭遇したのは「彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所」(4)でのことでした。自分の信仰の原点で神から再び問われたことになります。一連の出来事を経て「アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。」(18)といいます。やがてそこに葬られる土地、アブラハムの墓があるとされるのがヘブロンです。神からの試みを経て、神の問いを自らの問いとしつつ生涯をヘブロンに刻みつけたのでしょう。
 アブラハムを再び問う神は、わたしたちにも、何度も何度も問いを投げかけている。そう思うのです。その問いにわたしたちはうまく答えられるのでしょうか。

 祈ります。
 すべての者を愛し、導いてくださる神さま。富は祝福ではなくむしろ問いであることをアブラハムの生涯を通してわたしたちは示されました。あなたを信じ歩むことは、豊かな祝福を得るためではなく、どのようにしてあなたの祝福を分かち合いつつ生きるかという課題を与えられることだと気づきました。感謝します。どうかわたしたちの信仰をあなたが受け入れてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

四谷快談 No.189 え、そうなの?(文中敬称略)

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