イザヤ44:6−17/ローマ3:21−28/マタイ23:25−36/詩編51:3−11
「イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」(イザヤ44:6)
農村伝道神学校で「キリスト教概論」という一般教養科目をしばらくの間受け持っていました。授業ではアリスター・マクグラスというルター派の神学者が書き、2008年に日本語版が発行された「総説キリスト教」という本を底本にして、そのうちの第6章から第8章までを中心に用いることにしました。
その第6章「キリスト教信仰の核」の最初に出てくるのが「神」です。当然ながら神はキリスト教信仰の中心に存在します。わたしたちにとっては「言わずもがな」ですが、実は「言わずもがな」と一括りにしていることの中にたくさんの考察されるべき事柄が眠ったままでいたりするのです。「神」などはまさにその類と言うべきでしょう。
わたしたちには極めて自明の「神」ですが、ではそれはどの神で、どのような神なのか、膨大な注釈が必要になります。通常わたしたちの信仰の出発はこの「神」によってアブラハムが選ばれたところから始まるわけです。つまり、「神」とは「アブラハムの神」のことです。これは極めて重要なことです。
というのも、アブラハムの住んでいた地域には様々な民族が暮らしていて、その民族が固有の、自分たちの神をもっていたのです。あるいは高度に発達した多神教の概念を持つ民族もいました。だから「神」というだけでは圧倒的に情報不足なのです。そういう背景の中でアブラハムは「神」に選ばれるわけですが、その選びに対してアブラハムは自分の応答としてその「神」を「イスラエルの主なる神」と表現したのです。それは例えば新約聖書でパウロが「主イエス・キリストの父なる神」と表現したのと同じです。「神」を考える、「神」を語るには先ず、それがどこの、誰の神であるかはとても重要なのです。
例えば民族同士が争い戦争をして滅ぼされるということは、彼らの信じた神もまた滅ぼされることです。負けた民の信じた神は、民が負けた瞬間神もまた負ける。だから負けた神を祀る祭具などがどれ程高価であっても、それに手を伸ばしちゃいけません。祟られるし、負け神がくっついてきちゃう。だから例えばヨシュアが戦いの生涯を送るときに、他の国からぶんどる品々に注意が必要だったし、場合によっては負けた神の祭司たちを皆殺しにする必要もありました。そうやってアブラハムからずっと自分たちを守り続けてくれた神を、よそ見せずに信じ続けることがユダヤ・イスラエルに求められたのです。やがて「イスラエルの主なる神」は「アブラハム・イサク・ヤコブの神」と呼ばれるようになりました。
ところがご存じのように北イスラエルは軍事大国アッシリアに滅ぼされ、そのアッシリアを破ったバビロンによって南ユダ王国が滅ぼされてしまいます。多くの人が捕虜としてバビロンに捕囚されますが、その捕囚の間に人々は「どうしてわたしたちの国は滅ぼされてしまったのか」を考えました。そして宗教指導者たちによって、「アブラハム・イサク・ヤコブの神」を信じ続けなかったからだと示されるようになりました。負けた民の信じる神はとうに滅ぼされてしまうはずなのに、ユダヤの人々は捕虜として暮らしながらヤハウェへの信仰を捨てず、むしろ律法を守るという新しい形で神を信仰していったのです。
初期のイザヤはアッシリアに滅亡させられる寸前の頃に活躍した預言者ですが、40章からあとは「第2イザヤ」と便宜上呼ばれます。バビロン捕囚がペルシャ王キュロスによって解放される直前の時代を生きた人です。40章の書き出しは「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。」(40:1)と始まります。「アブラハム・イサク・ヤコブの神」ヤハウェがペルシャの国をその手として用いて、捕虜である自分たちを救い出してくださることを預言したのです。負けた民の神は滅ぼされ棄て去られるどころか、世が続く限り自分たちを愛し、慰め、励ましてくださると信じた。それがいまもう目の前に、神の救いの御業が見えるところまで来ていたのですね。
もちろんユダヤ・イスラエルの歴史はそんなきれい事で語れるほど易しくはありません。その後もたくさんの失敗を繰り返し、あるいは民族が壊滅しそうな打撃も何度も受けます。この頃彼らは本当に歴史を司る神を信じているのか疑問を持たざるを得ないような行動を平気でとっています。しかし、人間がどうであれ、神は神なのかもしれません。「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」(44:6)。このことばの前に跪いた人々をわたしたちは良く知っています。今日ここに覚えられている一人ひとりは、それぞれの人生の途上で神に出会い、それぞれ固有の歩みの中で「この神をおいて神はいない」と信じることができたのです。だから彼女ら/彼らは、死んでもなおわたしたちに証しをし続けている。「恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。」(同8)。これこそまさに彼女ら/彼らの証しなのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。今日は聖徒の日・永眠者記念礼拝を捧げることがゆるされました。感謝をいたします。アブラハムとそれに続く幾世代にも亘って、あなたは人を見放さず、すべてを救うご計画を僅かも変えることをせず、今もわたしたちを守っていてくださいます。ここに記念されている一人ひとりはその証し人です。今日は神さま、あなたの証人たちに囲まれてこうして礼拝を捧げています。あなたに従う思いをさらにあなたによって強められますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。