先日下北半島を一周してきたことはここに書いたが、その前日には両親のいる二つの施設を訪ねもした。
その町も平成の大合併前にはちゃんと町役場(地方では町村役場や市役所はその地域で一番の大企業だ)があり、その職員を当て込む飲食店などもいくつかはあったのだが、大合併後その町役場は支所となり、やがて支所も廃止され、飲食店も軒並み閉店した。比較的元気な母親と昼食でもと思ったが、思い当たる店は「本日昼は臨時休業」(!)。廃業・休業が立ち並ぶ中、あちこち巡って結局横手やきそばの馴染みの店に立ち寄った。
合併相手の市にしても我が町とそれほど大差ない。交通の要所であるゆえに高速道路IC付近にはそれなりに大型店も散見されるが、いわゆる旧市街地には懐かしい店の更地になった跡やシャッターの閉じた建物だけが残されていた。
共通してどこも圧倒的に人がいない。新幹線で降り立った駅も昼食場所を探してあちこちまわった街もICのある場所でさえ。さらに言えば赤ん坊を含む子どもの姿もまるで見えない。平日昼ということを差し引いても、学校の前を通ったのに声すらほとんど聞こえない。これは下北を巡る間もほぼ共通する事実。
先日幼稚園の合同礼拝で「キリスト教保育」誌に指定された聖書箇所はゼカリヤ書8章5節だった。「都の広場はわらべとおとめに溢れ/彼らは広場で笑いさざめく。」。これは神が捕囚後のエルサレム復興に激しい熱情を注でいることを言い表す一節。老人が長寿の杖を手にして広場に集まることと一緒にひと息で言い切っている。人の声がするということ──たとえその声の主が老人であろうと子どもであろうと──、それこそが神がわたしたちに与えてくださる揺るぎない「希望」なのだとゼカリヤは言っているのではないだろうか。
レイチェル・カーソンは、鳥たちの声が聞こえない「沈黙の春」を警告した。子どもの声が聞こえない街で、その警告に震えた。
2024
20Oct