ヨハネ11:45−54
今日、私たちに与えられた御言葉は、ヨハネによる福音書11章45~54節になります。
「マリアのところに来て」(45)という言葉ではじまりますが、まずはこのマリアのところで起こった出来事を振り返り、その出来事に対して人々がとった行いの中に示される福音を共に味わいたいと思います。
このマリアとは、イエス様に香油を注いだマリアです。愛する兄弟ラザロが死に、悲しみに沈むマリアの元にイエス様は来てくださいました。マリアは涙ながらに訴えます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(11:32)、イエス様は泣き崩れるマリアと彼女に寄り添う人々が泣いているのを見て、憤りを覚え、イエス様もまた涙をながされました。そしてマリアのところに来ていた人々に気づきを与える為に「あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」(11:42)と神様に祈り、そして「ラザロ、出て来なさい」(11:43)と叫び、愛する者を復活なさいました。
このラザロの復活の奇跡が、ヨハネによる福音書における最大の転機となります。この復活の奇跡を目撃した多くの人はイエス様を信じました。それだけに留まらず、48節の 「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。」という祭司長たちとファリサイ派の人々の言葉で分かるとおり、復活の話を聞いたり、復活したラザロを見たりした人たちが次々にイエス様を信じるようになりました。
しかし一方で、復活の奇跡を見たにも関わらず、そのことをファリサイ派の人々に告げ、是非を問う者たちがいました。愛する者を亡くした悲しみと苦しみに囚われていた人たちが、復活の奇跡によって喜びへと解き放たれる、その素晴らしいしるしを、素直に受け入れることができない。その場に満ち溢れる神様の愛を、栄光を感じることができない。真の神様の御業であることか判断ができない。これこそが罪です。神様に顔を向けず、この世のこと、人の権威、人の知識に顔を向けているから、復活の奇跡にある神様の愛すらも分からない。分からないから彼らは誰かに判断をゆだねるのです。
このことは、ラザロの復活の奇跡だけのことではありません。ヨハネによる福音書9章で、イエス様が生まれつき目の見えない者を癒した時も同じでした。癒しの奇跡がなされた時、そこに起こったのは喜びや神様への賛美ではなく、疑いでした。人々は癒された人を疑い、癒しの業を疑い、その為に、癒された人をファリサイ派の人々のところへ連れて行きました。しかし判断を委ねられたファリサイ派の人々もまた、癒された人の話を受け入れず、彼らの身勝手な秤で裁き、癒された人をユダヤ人の社会から締め出したのでした。
どんな癒しの奇跡も、頑なユダヤ人には、イエス様を心から信じるしるしとはなりませんでした。奇跡の業を見て信じないにも関わらず、ヨハネによる福音書10章24節にあるとおり彼らは「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」とイエス様に迫りもしました。しかし自分たちの納得のいかないイエス様の答えに腹を立て、石を手に取るのでした。自分たちの思い描いたメシアのイメージ、その偶像にそぐわないと、神様の御子さえも殺そうとしました。
その様な者たちが、復活の奇跡をなさったイエス様を判断できるわけがありません。祭司長たちやファリサイ派の人々は最高法院を招集しましたが、彼らの議論は紛糾しました。あえて彼らが避けていた“メシア”という言葉を加えて、彼らの議論をギリシア語からの直訳で確認してみましょう。「この男は多くのしるしを行っている」、「我々は何をすべきか」、「このままにしておけば、皆が彼をメシアとして信じるようになってしまう」、「そうなれば、ローマ人が来て、我々の土地も民も取り去るだろう」。
最高法院においても、彼らは自らが作り上げたメシアの偶像を持ち出し、更には、この世の価値観、つまりは彼らの所有物と思っている土地や国民を秤にかけたのです。神様が禁じていた偶像を持ってイエス様の処遇を判断しようとしたのです。秤は基準となる確かなもの正しいものがなければ量ることができません。しかし彼らは確かな神様の御業である奇跡を脇においやりました。彼らが比べるべきは、これまでユダヤ人を救ってきた神様の御業、イエス様の奇跡がその神様の御業であるかどうか。神様がモーセにいつもともにいると約束されたように、神様がイエス様と共におられるのかどうかでした。イエス様はこれら比べるべきことに対してすでにお答えになっています。「父の名によって行う業が、わたしを証しをしている」(10:25)、「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいる」(10:38)。しかしユダヤ人たちはイエス様の証言を受け入れないが為に、判断ができずにいました。
紛糾する場を治めたのは、神様でした。神様が大祭司カイアファをとおして決断された言葉をギリシア語の直訳で言ってみます。「一人の人が人々のために死に、国全体が滅びないことが、あなたがたに益になるとは考えないのか。」。“益になる”・“有益である”という意味のギリシア語のσυμφερει(sympherei:スゥンフェレイ)には、もう一つ“集める”という意味があります。「一人の人が人々のために死に、国全体が滅びないことが、あなたがたの為に集めるとは考えないのか。」これはカイアファが、ユダヤの民の為に言ったことではありましたが、52節のとおり、「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」、と神様はイエス様が十字架にかかることで、ユダヤ人の為だけでなく、私たちの為に、私たちを集めると宣言されたのです。つまりは神様が救いの計画を、人の口を使ってイエス様こそがメシアであると宣言されたのです。
私たちは常に判断を迫られます。人生は判断の連続と言っていいかもしれません。試練のような判断をしなければいけない時もあります。その時、私たちはこの世の価値観、この世を支配しているかのごとく振舞うお金・経済、地位や知識、それら偶像を見るのではなく、確かな神様の愛を見ましょう。私たちもまた勝手な神様・イエス様のイメージを思い描いてしまうかもしれません。偶像ではなく、私たちが知っている御業、私たちを救って下さった御業、今私たちを招いてくださっている御業、そして私たちの判断を良いものへと導いてくださるであろう御業、その御業にある愛こそが確かなものです。その愛に従うものこそが神の子であり、その愛によって私たちは一つに集められています。散らされていた私たちを集められるために、一人子さえも十字架にかけられたその神様の確かな愛を信じ委ねましょう。
祈ります。
愛する天のお父様、本日こうしてあなたを愛するものがあなたによって集められ、共にあなたからの御言葉を味わえましたことを感謝いたします。わたしたちは主イエス・キリストの十字架の死と復活を心に確かなものとして覚え、その愛によってあなたの御心にかなうものとして歩むことができますように。私たちは今、あなたの家族としてすべてをゆだね、感謝の祈りを尊き救い主、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。