*本日は北支区交換講壇礼拝で、滝澤牧師は千代田教会で奉仕です
*そのため音声ファイルはありません
Ⅱコリント書4:16―18
今日の聖書箇所は先ほど司式者に読んでいただいたⅡコリント書4:16-18です。この前後の箇所はパウロが自らの使徒職、伝道者としての使命について述べている箇所ですが、さらにそこから広がって、信仰者の生き方、在り様についての強烈な主張が展開されています。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(4・16-18)
この箇所から様々なメッセージを読み取ることが出来ますが、今日は特に冒頭の「落胆しません」という言葉に注目してご一緒に考えてみたいと思います。ここで「落胆する」と訳されているもともとのギリシア語(ekkakeou)は、「疲れて嫌になる」「怠惰になる」「怠ける」というようなニュアンスから、転じて「意気阻喪する」「落胆する」という意味で用いられる言葉です。
この4章の冒頭にも、こう記されていました。「こういうわけで、わたしたちは、憐みを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから、落胆しません。」(4・1)伝道者パウロは、落胆せざるを得ない状態でも、しかしなおも落胆せず、宣教の使命を担っていこうという姿勢を強調しているのです。
考えてみると、「落胆する」という言葉は、漢字で「肝が落ちる」と書きます。自分の中の肝心のものが落っこちてしまう状態を「落胆」というわけです。これは古い中国の言葉から来たようですが、わたしたちが日常的に使っている表現で言えば「ガッカリする」とか、「気落ちする」というようなニュアンスになるでしょうか。実際に私自身も、最近は特にしばしばガッカリすることがあります。落胆しています。多くの場合、自分自身に対して…。(中略)
しかしパウロはこの箇所で、断固として「わたしは落胆しない」と言い切っているのです。なぜそんなことが言えるのでしょうか。パウロという人は、どのような意味で自分は絶対にへこたれない、めげない、落胆しないと言えるのでしょうか。その答えは、7節以下にあります。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器の中に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことを明らかにするために。わたしたちは四方から苦しみを受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見棄てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(4・7-9)
パウロは、自分が「土の器」だと言います。この「土の器」というギリシア語(skeuos)は、本来は「道具」とか「容器」という意味で、そこから「土器」や「陶器」などのことを指すようになったとされます。つまりそれは、欠けやすく、割れやすい、そして実に脆いものだというニュアンスを含んでいます。考えてみればその通りです。私たちは、他人のちょっとした言葉に深く傷つき、すぐにヒビが入ってしまいます。ちょっとしたことで、すぐに落ち込んでしまったりもします。まさに、実に簡単に、めげて、へこんでしまうのです。その意味で、わたしたちはまことに「土の器」でしかありません。しかしこの「土の器」は神さまが造られ、神さまが用いられる道具だというのです。こんな壊れ物のような土の器、ヒビが入り、欠けた土の器をも、主なる神は用いて下さるとパウロは言うのです。
ペルシアに伝わる古い民話に、こういう言い伝えがあるそうです。ある町に、一人の水汲み人がいました。毎日毎日、主人のために、町外れにある井戸から水を汲んで家まで運んでくるのが仕事でした。彼は、水を運ぶための二つの瓶を与えられていました。天秤棒の両側に瓶をつるして、バランスを取りながら水瓶を、日に何度も運ぶのがこの人の仕事でありました。ところが、この水瓶が古くて、あちこちにヒビが入っていて、水漏れするのです。運んでいる内に、折角汲んだ水の半分近くが途中で漏れてしまうという代物でした。やがて主人がそのことに気づきます。そこで水汲み人を呼んで、「新しい水瓶を、水の漏れない水瓶を買ってやろう」と親切に言います。ところが、水汲み人はこう答えたというのです。「ご主人さま、まことに有り難い思し召しですが、出来ればもうしばらく、この古い水瓶を使わせて頂けないでしょうか。」主人は不思議に思ってその訳を尋ねました。水汲み人は、いつも水汲みに通う裏路地に主人を案内して、こう言いました。「ご覧ください。私が毎日水瓶を運ぶ裏道です。」主人がその裏道を見ると、そこには細い路地の両側に、二列の小さな草花がずっと続いて咲いていたというのです。水瓶からポタポタと漏れる水が、二筋のお花畑を造っていたのです。水汲み人は、その二筋の草花の列を愛して、この古い水瓶を使い続けたいと申し出たわけです。これを聞いて感心した主人は、その水汲み人がヒビの入って水漏れする水瓶をそれからも続けて使うことを許したという、古いペルシアの民話です。
私たちは、文字通りの意味で、ヒビの入った水瓶です。すぐに欠けたり、割れたりする、脆い「土の器」にすぎません。私なども、この年になると、身体のあちこちにガタが来ています。二月に一度は病院に行って、お医者さんから、「血圧が高い」とか、「ヘモグロビンA1cの値が、平常値を越えている」などと、お叱りを受けなければなりません。そればかりではありません。視力は衰え、耳は遠くなり、歯はがたがたで、おまけに最近は声帯が痩せてきて発声にも難がある状態です。しかしこんなヒビが入り、割れかけている水瓶をも、神はそのご用のために用いて下さるというのです。すぐに新品の、ヒビの入っていない新しい水瓶に取り替えようとは、神さまはなさらないのです。
そうであるのに、どうして「こんなにヒビが入っている、こんなに欠けている、もう割れそうだ」と言って、それを嘆き、落胆し、落ち込む必要があるのでしょうか。そんなことは当たり前のことではありませんか。私たちはまことにヒビの入った土の器にすぎません。しかしこの土の器の中に、主イエス・キリストという宝が共にいて下さって、こんな私をも用いて下さるのです。だからこそ、「わたしたちは、四方から苦しみを受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」のです。それは、私たちに能力があり、努力し、また頑張っているからではありません。私たち自身は、もう古くなってヒビが入り、水漏れして、今にも壊れそうな「土の器」にすぎないのです。しかし主なる神さまが、こんな私をも用いて下さるので、めげずに、へこまずに、落胆しないで、今日も立ち上がり、共に歩いて行くことが許されているのです。
私自身、つい先日満77歳になりました。新宿区の民生委員が訪ねてきて、「喜寿のお祝い」として1万円を頂きました。先ほども申しましたが、身体のあちこちにガタが来て、文字通り今にも壊れそうな「土の器」です。しかし、この「土の器」の中に主イエス・キリストが共にいて下さるから、自分のふがいなさを嘆くのはもうやめようと思います。落胆したり、ガッカリしたり、落ち込んだり、めげたり、へこんだりするのは、毎度のことです。しかしこんな私を用いて下さる神さまを見上げて、すべてをお任せして、もう一度立ち上がろうと願っているのです。
今日の主日礼拝から始まる一週間も、このみ言葉を握り締めながら、共に歩んでいきたいと思います。その私たちの歩みに、主イエス・キリストが共にいて下さいます。