歴代下7:11−16/エフェソ3:14−21/ヨハネ10:22−30/詩編103:14−22
「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソ3:19)
この1ヶ月くらいの間に、ふたつの研修に参加することが出来ました。一つは親の育児放棄により生後4ヶ月から児童養護施設で暮らした方の話を伺って、包括的な援助をどう構築するかというテーマの研修でした。もう一つはカルトによってダメージを受けている人本人や家族への相談者としての関わりについて考える研修でした。そして、全く意図しなかったにもかかわらず、里帰り先でも援助について話題になったのです。そんなわけで、ここ1ヶ月くらいの間、なんだか援助について考えさせられる強いられた状況が続きました。
牧師は職業柄、援助する側にいることが多いかも知れません。この仕事を今まで続けてきているので今はさすがに解放されましたが、以前はわたしもいわゆるメサイア症候群だった気がします。無意識に誰かの救世主になることで、自己肯定感の低さ・罪悪感・劣等感・無価値観を解消したい、という心理のことです。牧師として人から相談されるとこの感情が刺激されやすくなります。そして「自分は出来る牧師なのだ」と自己肯定感が上がります。問題はその感情の高ぶりに比例するだけのカウンセリングスキルや問題解決能力が備わっているかどうかなのに、そんなことはどうでも良いほどの高揚感に包まれてしまったりするわけです。これでは、問題を抱えた人がせっかく相談に来ても、却って問題を拗らせてしまう結果になります。何度も何度もそういう体験を積み重ねてきてしまいました。
面倒な相談事を持ち込まれたら、誰でも先ずは「イヤだな、面倒だな」という感情が生まれます。でもメサイア症候群に罹ってしまうと、「イヤだな、面倒だな」と感じてしまう自分を認めたくないゆえに、逆に高揚感ではなく劣等感を強く抱くことにもなります。ましてクリスチャンバイアスがかかっていると、相談を無碍に断るなんて最低のクリスチャンじゃないですか、と自己嫌悪してしまう。でも「イヤだな、面倒だな」という感情の中には、心の深いところで自己防衛システムが働いていてそこから発せられるシグナルだったりすることもあるのです。だから冷静になれば「わたしには手に負えない」と素直に認められるはずですが、なかなかそうは出来ない。まして牧師ですから。こんな失敗を本当に数々経験してきたなぁと先日里帰り先で話題になった時には思わず自分の来し方を振り返りました。
たどり着いた先は、これまた当たり前すぎるほど当たり前のことなのですが、「わたし自身は神でもキリストでもない」という事実です。神でもないしキリストでもないし、神やキリストに成り代わって何かを成す特別な地位を与えられているわけでもない。極めてシンプルなその事実に心の底から気づいた時に、心の下駄を脱いで、身の丈で他者と接する感覚に触れたのでした。
エフェソの信徒への手紙はアジアの異邦人キリスト者全体に充てたもので、既に「教会」という形が表れている時代に、その教会がこの世に存在する意味について全宇宙的な雄大さを持って述べている手紙です。教会は天地創造以前から歴史の終末に至るまでの神の救いの働きをこの世で体現している装置なのだと。するとそこに連なるわたしたちもまた、神の救いのご計画をこの世で体現する一人なのだと感じるでしょう。だからこの手紙の第2部にあたる4章以下には、その教会論に基づいてキリスト者の生き方が勧告されているのでしょう。
今日お読みいただいた箇所には、神によってわたしの内なる人が強められるようにと著者が祈っているとあります。あるいは「あなたがたが…、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るように」(同18−19)と祈られているとも伝えられます。教会──つまり神の救いのご計画を体現する装置──に属しているのだから、神を理解するべきなのが当たり前で、神の心を手にしているわたしは正統なキリスト者だ、と自負したくもなる書かれ方です。ところがこの箇所にこう書き記していることに注目しなければなりません。それは「人の知識をはるかに超えるこの愛」という言葉です。著者はわたしたちに対して、もちろんキリストの愛について知ってほしいと願っています。でもそのキリストの愛は「人の知識をはるかに超える」ものだと言うのです。知ることと知識を超えることとが一言で言われているということにわたしたちは注意を向ける必要があります。
神のすべてを知ることは出来ないのです。出来ない以上、わたしたちは神になりかわることは出来ません。「神に成り代わる」──なんと魅力的な、誘惑的な言葉でしょう。まさにわたしはメシア、少なくともメシアの片棒を担ぐ者という自負がニョキニョキ生えてきそうです。でも著者はそうは言いません。神の御心は追求すればするほど広く長く高く深い。追求しても追求しきれないのです。でもだからといってガッカリする必要はない。そうではなく知ることは出来なくても、到達することは出来なくても、そういうわたしに「神の満ちあふれる豊かさのすべてに」(19)あずかる自由を与えてくださっている。神の満ちあふれる豊かさによってわたしも満たされることが許されているのです。
生後4ヶ月から児童福祉施設で育ったその女性は、18歳で施設を退所する決まりゆえに、世間に放り出された感覚を味わったそうです。生活して行くことさえ侭ならない日々だったと。成人式に振袖を着ることも出来なかった。だから今、自分の後輩たちに振袖を着せてあげる働きをしているのだそうです。時々彼女らに「わたしのことなんか知らないくせに」と突き放されることもあるそうですが、そんな時は「確かにあなたのことをすべてわかることは出来ない。けど、あなたを放っておけないのもわたしの本心なのだ」と伝えていると仰いました。メシアになれなくても人と関わる、関わり続けることは出来る、自分の感情と折り合いながら続けることが出来ると、改めて教えられました。その関係の中にきっと「満ちあふれる豊かさに満たされる」現場が生まれているのだと感じたのでした。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたがわたしをつかんで離さないでいてくださることに感謝します。わたしはメシアではなく、救われる必要のある一人です。そのことに気づかせてくださいました。そして不十分にもかかわらずあなたの満ちあふれる豊かさによってわたしを満たしてくださっている。感謝します。わたしたちを執り成して下さる復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。