エレミヤ50:4−7/Ⅰペトロ2:11−25/ヨハネ10:1−6/詩編23:1−6
「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(Ⅰペトロ2:24)
防府教会にいた時に、死産となった赤ちゃんの葬儀をしたことがありました。教会員のYさんの息子さんご夫婦の最初の赤ちゃんでした。生まれてくるその日のために、赤ちゃんのためのいろんなものを準備していましたが、生きて生まれてくることが出来なかったのです。その事実にみんな悲しみに包まれましたが、特にお母さんになるはずだったひとの悲しみはとても大きいものでした。
小さな棺を用意して亡骸を納め、一緒に火葬場へ連れて行きました。火葬場の係の方は丁寧に棺を預かってくださいました。ただ、当時の防府市の火葬場に胎児専用のものはありませんでしたので、火葬しても遺骨が残らないことがあると告げられました。お母さんはなんとしても遺骨を残して欲しいと希望されたので、係の方とお話しして、場合によっては市の規則を破るようなことでしたが、希望に添うようにしてもらいました。
Yさんはご夫婦で教会員でしたが、息子さん夫妻はそうではありません。でも牧師に弔いをして欲しいということだったのです。そして火葬場でお別れの会をしました。お母さんは小さな棺からなかなか離れることが出来ませんでした。Yさんは「もう充分じゃない?」と声をかけるのですが、なかなか終わりを迎えられないのです。わたしは、ここで充分悲しむことが彼女にとって重要だと思えたので、係の方に待っていただき、終わったら声をかけることにしました。ここでも係の方は気持ちを汲んでくださいました。今思えば本当に有難いことでした。
それまでも様々な葬儀を経験してきましたが、この経験はわたしにとってある確信を得る経験となりました。現代の話ですから本当はいろいろとスケジュールが詰まっているだろうと思うのです。葬儀社にしても火葬場にしても参列者にしても。でも、たとえスケジュールが詰まっていたとしても、悲しむ時間は充分にかけてかけすぎることはないのだ、という確信です。悲しむべき時にちゃんと悲しまなかったら、ふたたび立ち上がるための力を得るのに逆に時間がかかってしまうかも知れません。
葬儀の度に感じるのは、人が亡くなったあと一連の葬りの儀式を進める時間はとても短いということです。短い時間に遺族は様々なことを決めなければなりません。気がついたら悲しんでいる暇さえなかったなんていうこともあるのです。逆にそうだからこそ一連の式の間気丈に振る舞うことが出来たという人も大勢いますが、だとしても、やはりひとは悲しむべき時にはちゃんと悲しまなければなりません。悲しみが、悲しみ自体が、ひとにふたたび立ち上がる力をくれるのです。だから、人が亡くなったという知らせを受け、牧師として出向いて特に打合せをする時には必ずそのことをお話しするようになりました。あの死産の赤ちゃんの葬儀が、後押ししてくれたのです。
ペトロの手紙はやはり迫害時代を背景として生まれています。だから当然ペトロが書いたものではありません。ペトロの口述をシルワノが筆記したという5章の結びの言葉も信憑性はありません。書かれたのは紀元90年代、暴君と呼ばれたローマ皇帝ドミティアヌスの迫害時代を背景としているとみられています。そういう背景を持っていますから、「苦難」が主たるテーマになっているのも頷けます。今日の箇所で言えば、だからこそ余計な衝突や不当な中傷を避ける意味でも為政者への服従が勧められているのでしょう。それでも苦難が避けられない時には、その苦難こそキリストの死の苦しみに与ることなのだと手紙は説いています。キリストの苦難が復活によって覆されたのと同じように、自分たちの苦難は終末における神の裁きにより、キリストの栄光のうちに祝福に変えられるのだから、と。
もちろんそうでしょう。でもやはり苦難には遭いたくない。キリストの苦しみにあずかるのだと言い聞かせて迫害時代を生きた人々も大勢いることは事実ですが、でも、出来れば苦難に遭うことは避けたい。人が「死」を忌み嫌うように、苦難もまた避けたいことです。
しかし一方、確かに悲しみによってふたたび立ち上がる力を得るという不思議なこともたくさん起こっているのが世の中です。悲しみからでさえ力を得られる。自分が受けた傷によって逆に自分が癒されることだって起こり得ることです。場合によっては苦難の中に慰めを見出すということもあるのかも知れません。
今いのちがあるということの意味に目を向けたいと思います。順調であれ逆境であれ、喜びのうちにあれ苦難の中にあれ、今事実命が与えられている。それはキリストの「お受けになった傷によって」(24)与えられたのです。だからこそ、今生きている事実は重い。その命には必ず大きな意味があるに違いないのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。わたしたちが生きている限り喜びも苦難も必ず伴います。どのような時でも、命が与えられていることの意味を考えることが出来ますように。この世界にはあなたによって与えられた命が満ち満ちていることを、そしてその命は神さま、あなたが痛みを持って支えておられることを、いつも覚えることができますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。