※本日滝澤牧師不在日につき、音声データはありません
「主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」(詩編27:14)
詩編27章は、最後の14節で「主を待ち望め。雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」と、「主を待ち望め」が2度繰り返され、強調されています。「主を待ち望む信仰」、「主の〈救いを〉待ち望む信仰」(ヤハウェの救いを待ち望む信仰)が27章の中で歌われています。
ひとはなぜ歌うのでしょうか。フラメンコを例に考えてみましょう。フラメンコはスペインのアンダルシア地方のヒターナ(被差別階級。一般的にジプシーと呼ばれるが、ジプシーは当事者から忌避された差別語)の音楽で、踊りではなく歌(カンテ)が中心です。最も古いフラメンコの歌はトナと呼ばれ、まるでクルアーン(コーラン)を唱えているかのようです。Ole(オレー)という掛け声は「アッラー」に遡るとも言われています。
アンダルシア地方のグラナダにはフラメンコ発祥の地「サクラモンテの丘」があります。その丘には無数の洞窟があり、今も被差別の人びとであるロマ系の「ヒターナ/ヒターノ」が暮らしており、ここから多くのフラメンコの伝説が生まれ、フラメンコの聖地と言われています。洞窟へと追いやられた人びとからフラメンコは生まれたのです。被差別の暮らしでの迫害、貧しさ、苦しさの中で、家族、友人らと解放を求めて歌う。まさに、歌わずにはいられないのです。鍬を振り下ろすとき、大きく重たい籠を頭に乗せて坂道を歩くとき、行商の馬車に揺られる時、丘の上から沈む陽を見つめるとき、自分のために、あるいは愛するひとのために、そしてまた共に生きる仲間のために、共同体の歌を口ずさむのです。歴史的に北アフリカ、インド、アラブ等の多くの文化と民族が渾然一体となったアンダルシア地方でフラメンコは生まれました。
詩編27章を我々は詩文として読みますが、作られた当時は詩歌として歌われていました。「主の救いを待ち望む信仰」を詠う27章は、1〜6節の「信頼の歌」と7節〜14節の「嘆願の祈り」に分けられ、元来は別々の詩だったものが「ダビデの詩」として一編に編集されたと思われます。フラメンコにも誰のために、どんな状況で歌ったのか背景があるように、詩編27章にも歌わずにはいられない現実があったはずです。
1節は、この詩編の作者の神に対する揺るぎない信頼の表れです。しかも、2−3節からも分かりますように、この詩人はまるで猛獣に肉を食い尽くされるかのように、あるいは戦争によって敵に攻め入れられるかのように、命を脅かされるような苦難の最中にあっても、恐れることはなく、「わたしには確信がある」と言うのです。続く4−6節において、詩人はひとつのこと、唯一の願いを神に求めると言っています。その願いとは、4節に記されています。「主の家」は神殿を表しますが、「宮(神殿)で朝を迎える」とは、神殿に住む王であるダビデのイメージだけではなく、無事に朝を迎えられるかどうか分からない不安と恐怖に打ちのめされていた、苦難の最中にある詩人の現実が反映されているのだと思われます。5−6節の「災いの日」や「群がる敵」(「群がる敵」はヘブライ語原文では「わたしを取り囲むわたしの敵たち」)という表現もまた、詩人が置かれていた現実の苦難を指すと考えられますが、しかし詩人は神に守られ、犠牲を捧げて、讃美の歌を捧げるという希望が語られています。
7−14節「嘆願の祈り」でもまた詩人は苦難の直中から神に祈り求めています。7節はヘブライ語原文では「聞いてください、ヤハウェよ」という神に対する呼びかけで始まり、その直後に、神が自らの祈りに答えてくれるのは神の憐れみにほかならないとの詩人の神に対する深い信頼が続きます。8節は神をひたすら尋ね求める詩人の飽くなき信仰が記され、9−10節は詩人が孤独に置かれている様子が伝わってきます。10節の独白は、孤独の直中に置かれている詩人の現実があり、その現実において、まさに神は詩人にとって最後の「砦」「わたしの命の砦」(1節b)なのです。11−12節は「敵たち」に四方を囲まれ、孤独と不安にさいなまれている詩人の苦悩が畳みかけるように語られ、詩人は「平らな道」が象徴する「安らぎ」や「平安」を神に祈り求めます。そして13節で、詩人は「命あるものの地」、すなわち「生ける者らの地」であるこの世において「安らぎ」「平安」である恵みに与らせてくださいと願います。ここには、この世界で神の前に信実に生きるという旧約聖書本来の信仰があり、詩人の苦難はそれほどに切迫しているのです。そして14節の主題が置かれます。
詩編27章が私どもの心に突き刺ささるのは、詩人が揺るぎのない信仰を持っているからではありません。敵に囲まれ、自らの命が危険にさらされ、信仰が揺れ動かされる恐怖におののく経験の最中にあって、「光」「救い」「命の砦」(命の避け所)である「ヤハウェを待ち望め」と繰り返し宣言しています。決して揺るぎない信仰を持ち、揺るぎない人生を生きているのではなく、詩人もまた私どもと同じ、弱いひとりの人間なのです。私どもと同じ弱さを持ち、敵に四方を囲まれ、孤独にさいなまれている苦難の直中にあってもなお、最後の砦である神に信頼し、「主を待ち望め」(ヤハウェを待ち望め)と叫ぶかのように歌う、この詩人の「主の救いを待ち望む信仰」(ヤハウェの救いを待ち望む信仰)だからこそ、詩人の言葉が私どもの心に突き刺さるのです。
聖書学者のディートリッヒ・ボンヘッファーが「詩編は聖書全体の中でも独自の位置を占めている。それは神の言葉であって、同時に、いくつかの例外を除いて、人間の祈りである」という祈りのダイナミズムに言及しているのは、詩編27章が詩人の現実的な苦難の直中での祈りを記した「人間の言葉」であると同時に、人間に共通する普遍的な苦難の直中での祈りを記した「神の言葉」でもあるからです。
神への揺るぎない信頼と確信を我々の内側にしっかりと持ち、イエス・キリストの救いと平和を、突き刺すような情熱を持って広め、どれほどの苦難を与えられ道を遮られようとも、平和を繋いでゆかねばなりません。ひとは、歌わずにはいられないのです。「主の救いを待ち望め」(ヤハウェの救いを待ち望め)と歌った詩編27章の詩人のように、神から与えられた歌の力を信じて。