※本日滝澤牧師不在日につき、音声データはありません。
暑い夏を過ごしています。喉が渇きます。飲み物が欲しくなります。イエス様も私たちと同じだったようです。イエス様はサマリアで、一人のサマリア人の女性に出会いました。ユダヤ人であるイエス様が、サマリア人の女性に声をかけることは、当時の常識では考えられないことでしたが、イエス様は、サマリア人の女性に言ったのです、「水を飲ませてください」と。
この女性が井戸に水を汲みに来たのは、正午ごろ、一日の内でも最も暑い時間帯でした。多くの人が水を汲みに来る朝や夕方という涼しい時間帯ではなく、暑い時間帯に水を汲みに来なければならなかったとは、この女性が皆の輪の中に入れなかったということを意味しています。
イエス様は、喉が渇いていて、どうしても水が飲みたかったのでしょう。しかし、サマリア人の女性に声をかけた理由は、それだけではありません。聖書には、イエス様が水を飲んだとは書かれていません。10節以降で、イエス様は、この女性と「水」をめぐって対話をしています。この対話はかなり長く続いています。つまり、イエス様がサマリア人の女性に声をかけた理由は、この女性と話をすることが目的だったということになります。
イエス様は、正午ごろに水を汲みに来るような、誰からも相手にされないようなこの女性に対して、独りぼっちで生きていくしかないと思っていたこの女性に対して、声をかけてくださいました。このように、神様は、神様の方から私たちのところへと歩み寄ってくださる方です。
私は普段、キリスト教学校の宗教主任として、聖書やキリスト教に親しんでいるわけではない学生たちと共に過ごしています。学生たちには、神様について、キリスト教について、何らかのイメージを持っています。神様は私たちの手に届かないところにいるとか、キリスト教を信じるのは立派な人、聖書にも素晴らしい人しか登場しないのだから自分にはキリスト教は関係がないとか、そのような感覚があるようです。私の務めは、まずそのイメージを崩すことです。聖書に出てくる人たちは、決して立派でも素晴らしくもなく、どこにでも居るような人たちで、私たちみたいな人がたくさん居る。だから、聖書は面白いし、聖書の中に自分が登場すると思えるし、聖書には人生のヒントがたくさん詰まっている。神様は、人間をはるかに超えた存在であるけれども、私たちを造って、あとは頑張って自分たちで生きてねと遠くから眺めているのではなく、私たちのところに来てくださる。私たちに声をかけてくださる。それも普通の、立派でも何でもない人にも声をかけてくださる。礼拝に出れば、その神様に出会うことができる。学生たちには、そのようなことを伝えます。そして、聖書は自分に関係のある本であること、礼拝には自分の居場所があること、この2つを分かって卒業してほしいと思っています。それがキリスト教信仰において、とても重要なことだと思うのです。今日の箇所でも、私たちに関わることが語られています。
イエス様は、「この水を飲む者はだれでもまた渇く」(13節)と言われました。サマリア人の女性が、毎日毎日、暑い時間帯に井戸まではるばると汲みにくる水。いくら汲んでも、次の日の分まで水は残りません。今日苦労して水を汲んでも、明日もまた同じ苦労をして水を汲まなければなりません。汲んだ水を飲んでも、すぐにまた喉は渇きます。
イエス様は、続けて「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(14節)と言われました。渇くことのない水、そんな水があったら、どんなによいことでしょうか。ただし、イエス様が言われたのは、普通の水、井戸から汲んできたり、水道から出てきたりする水のことではありません。その水は、「わたしが与える水」であり、「その人の内で泉となり、永遠の命にいたる水がわきでる」(14節)水です。イエス様は、私たちに水を与えてくださり、その水は、私たちの内で泉となります。泉と言うのですから、私たちの内がその水で満たされるということになります。この水は、「永遠の命に至る水」です。「永遠の命」とは、不老不死とか、永遠に死ぬことはないとか、そういう命のことではありません。神様が共にいてくださる命のことです。聖書で「永遠」とは、神様を意味する言葉でもあり、「永遠の命」とは、神様の命だと言ってもよい、そういう意味の言葉です。
イエス様が与える水を飲むとき、私たちの内は、その水で満たされます。「永遠の命」に至る水、神様の命に至る水で、私たちが満たされるとは、私たちの内に神様がいらっしゃるということです。私たちの内に神様がいると言えるほど、神様はわたしたちの近くにいてくださる、共にいてくださる。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とは、こんなにも近い、神様と私たちとの関係を伝える言葉です。
サマリア人の女性は独りぼっちでした。その女性にイエス様は声をかけてくださり、「永遠の命に至る水」で満たされるという話を告げてくださいました。それは、神様があなたのそばにいる、神様があなたと共にいてくださることを伝えるためでした。暑い時間帯に井戸に水を汲みに来なければならないあなたは、自分のことを誰からも相手にされない、独りぼっちの存在だと思っているかも知れない。でも、そんなことは決してない。神様はそのあなたに声をかけた。そして、あなたの内は「永遠の命に至る水」で満たされている。だから、もうあなたは一人ではない。あなたは、神様と共に生きる命を生きている、「永遠の命に至る水」を飲む者。イエス様は、サマリア人の女性にこのように伝えてくださいました。イエス様は、その水は「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とも言われていたのでした。「わき出る」と言われているのですから、「永遠の命に至る水」を、自分の外へと流れさせる、ということになります。つまり、神様と共に生きるという「永遠の命」を生きる者は、そのことを、自分以外の人々に対して伝えることができるようになる、ということです。できるようになると言うよりは、「永遠の命」を生きるとは、誰かに伝えずにはいられないほどのことなのです。伝えると言っても、言葉で伝えるとは限りません。私たちの普段の生き方が、私たちが「永遠の命」を生きていることを、私たちと共に神様がいてくださることを、自然と誰かに伝えることになる、そういうこともあります。この女性は、正午ごろという暑い時間帯に水を汲みに行くしかなかった、誰とも交わりを持つことができずに生きてきたのでした。しかし、イエス様に出会って、イエス様と対話して、彼女は変わりました。水がめを置いて、町に行きました。人との関わりを避けていた女性が、自分から人々のところへと出ていくようになったのです。そして、イエス様のことを人々に伝えました。女性は変えられました。イエス様に出会い、イエス様との対話を通して変えられたのです。
イエス様が語りかけてくださるのは、聖書に出てくるサマリア人の女性に対してだけではありません。今日一緒に、この箇所に聞いている私たちに対しても語りかけてくださっています。
私たちにも対話が望まれています。旧約聖書では、親は、子どもに対して神様の救いを伝える務めがあると教えています。子どもたちに、神様のことを伝える。それが大人の務めです。すると、子どもたちは神様を知る者になります。子どもたちまた、大人と同じように、イエス様が与えてくださる水を飲む者であると知り、神様のことを周囲に伝えることができることを知るようになるでしょう。サマリア人の女性が、私たちと共にいてくださる神様を知り、その神様を伝える者に変えられたように、子どもたちもまた、神様を知り、神様を伝える者になっていくでしょう。そうやって、神様のことが伝えられ、広がっていきます。そこから、教会はさらに豊かになっていきます。
イエス様が一人の女性に声をかけてくださったことから、始まったことがあります。この女性が変えられ、神様のことが伝わりました。私たちも、イエス様の姿に倣いたいと思います。周囲の人と、子どもたちと対話し、神様のみわざを分かち合いたいと思います。そうやって教会が豊かにされていきます。教会が豊かにされるために、私たち一人ひとりが用いられているのです。