士師記6:36−40/Ⅰヨハネ5:1−5/ヨハネ7:1−17/詩編146:1−10
「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。」
(Ⅰヨハネ5:3)
幼稚園では時々取り上げることがあるのですが、児童精神科医として大きな働きをされた佐々木正美さんという方がいました。2017年にお亡くなりになったのですが、この先生は全国あちこちで幼稚園や保育園で働く人たちのために講演活動をなさった人です。たくさんの著書もあります。わたしも幸いに10年ほど先生の講演を何度も聞くことが出来ました。
佐々木先生はエリック・エリクソンという心理学者を日本に紹介した人でもあります。「アイデンティティ」とか「モラトリウム」という言葉や概念を提唱したのがエリクソンでした。そして「ライフサイクル」という人生の捉え方も提唱しています。わたしは佐々木先生の講演から、エリクソンのライフサイクルということを知ることになります。
この佐々木先生の講演録は本当に無数にあると思います。様々な講演でエリクソンが佐々木先生から紹介されるのです。そんなエリクソンの言葉の一つにこういうものがあります。「自分が産んだ赤ちゃんと一緒にいることをお母さんが幸福に感じることが出来たら、赤ちゃんはお母さんといることが幸福です」。エリクソン自身は精神分析家ですから自分の仕事のことで言い換えると「自分が目の前にいる患者から与えられているものに感謝が出来るときに、相手から感謝されるような治療が可能なんだと思う」と言うのです。
マタイ福音書が山上の説教の中でイエスのこんな言葉を書き留めました。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7:12)。エリクソンの言葉もこのイエスの言葉とよく似た響きをもっています。そしてエリクソンの言葉もイエスの言葉も、とてもわかりやすく、そして単純です。今日お読みいただいた手紙の筆者であるヨハネも、イエスが伝える神の御心を冒頭のように表現したのです。「神の掟は難しいものではありません。」(5:3)。
今日は平和聖日です。広島で被爆した信徒や牧師の有志が広島・島根・山口の3県で構成する日本基督教団西中国教区に要請し、教区は1961年に「8月6日、広島原爆記念日またはその前の日曜日を「平和主日」として守る」ことを教団総会に提案し、1962年10月の第12会教団総会の議を経て常議員会付託となり、「8月第一主日をこれに充てる」との修正案が可決されて日本基督教団の行事暦に加えられました。
教会が主イエスの恵みと平安を宣べ伝えるのに季節が問われる必要はありませんが、それでもやはり8月・夏は平和の福音を発信する特別な「時」です。そしてそれを8月第一主日としたこと、ましてそうなることが実際に広島で被爆した信徒や牧師の呼びかけで始まったのです。そこにある思いを汲み取るのに、何か特別な知識や経験はいりません。
でも人は、どうしても物事を難しく難しく考える生きものなのかもしれないのです。先ほど朗読した戦責告白にもあるとおり「わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中に」存在しているのです。それは極めて複雑な様相を呈しています。それゆえでしょうか、明らかにおかしいと思える例えばイスラエルによるガザの殲滅作戦が、3万人を遙かに超える死者を出しながら今だに止められない、それが世界の現実です。明らかにおかしいと思いながら、しかしそうはならない。誰かが、どこかで、あらゆる力を用いて白を黒にしているからかもしれません。そしておそらくわたしも、その企みに力を貸している一人なのです。
だからこそ、この平和聖日に、ヨハネの言葉を思い、胸に刻みつける必要があります。「神の掟は難しいものではありません。」。神の掟に忠実に従う者でありたい。そのように祈りつつ歩む者でいたい。誰かを負かしつけ、自分の力を誇るような「世に打ち勝つ勝利」(4)ではなく、キリストの伝える神の前に静かに跪くことで「世に打ち勝つ」者となりたいと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたの教えと戒めを複雑に難しくすることでそれを守れない自分を正当化してきた罪をお許しください。そうではなく、あなたの戒めの前に跪くことで初めて、世に打ち勝つことが出来るのだと知らしめてください。平和聖日に、決して平和ではない世の中で平和を祈るその滑稽な姿の中に自分の罪を思います。救いようのないわたしを、しかしどうかお救いください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。