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2024
14Jul

「ほどかれて」滝澤 貢牧師

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https://yotsuyashinsei.jp/wp-content/uploads/2024/07/20240714.mp3イザヤ43:1−13/使徒27:33−44/ヨハネ6:16−21/詩編54:1−9

 「夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。…こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。」
(使徒27:33,35)

 丁度1年前、夏休みをいただいて函館に出かけました。特別な計画など何もなくて、ただ若い頃に何度か訪ねた函館の町をもう一度訪ねたがかったことと、尊敬する先輩牧師が函館の教会にいるので日曜日にその礼拝を訪ねてみようと思ったことが動機でした。
 なんの計画もなく気ままに街中をぶらぶらしていたのですが、青函連絡船が埠頭に係留されていて今は記念館となっているというので乗ってみたのです。摩周丸でした。グリーン船室で古い映像が流れていたのです。それが昭和29年、1954年の台風15号での連絡船遭難事故を伝える映像でした。
 その映像を見た瞬間、自分は農村伝道神学校の卒業生であることに気づかされたのです。というのも神学校の初代校長がアルフレッド・R・ストーン宣教師、洞爺丸事故で遭難死した先生だったからです。そこで急遽予定を変更して電車を乗り継ぎ、洞爺丸遭難の現場である七重浜に出かけ殉難碑を訪ねてきました。北海道には珍しい猛暑の日でした。
 衝撃的だったのは洞爺丸が七重浜の沖僅か600メートルあたりで転覆・沈没したことです。激しい風雨や情報の混乱などで救助活動が遅れ、七重浜に打ち上げられた時点では生存していたもののそこで力尽きて亡くなった者が相当数いたという報告もあります。
 当時函館港内には8隻の船舶が今したが沈没は免れ、港外に錨泊した9隻の内2隻が座礁5隻が沈没、沈没した5隻はすべて青函連絡船でした。この5隻の犠牲者は最終的に1,430人となり、発生時点では1912年のタイタニック号沈没、1865年のサルタナ号火災につぐ世界第3の規模の海難事故でした。
 今日お読みいただいた使徒言行録はパウロが遭遇した海難事故を伝えています。パウロはエルサレムではなくローマで裁判にかけられることを希望し、新任の総督フェストゥスに皇帝への上訴を願い出ます。先週、「パウロは、自分に不利になるのを敢えて承知の上で、しかし正当な手続きによって裁かれることを望みました。」と言いましたが、それはこのことです。しかしフェストゥスはパウロに死刑に当たる罪を見出せなかったので、ユダヤの領主アグリッパ王の前にパウロを引き出し審判を受けさせます。アグリッパ王も罪を見出せず、フェストゥスに「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」(26:32)と言ったのでした。しかし行程に上訴した事実は生きているので、ついにパウロはローマに護送されることになります。その途中、エウラキロンと呼ばれる激しい暴風に見舞われたのです。
 その詳しい様子が27章13節から記されています。まるで洞爺丸台風のような状況です。暴風に見舞われるさなかにパウロは276人の乗員・乗客を前に彼らを励まし慰めている様子が窺えます。その姿は自分の救命胴衣を日本の若者に手渡したストーン宣教師に重なって見えます。導線の多くが極限状態に陥る中で、パウロは一人、神の救いに対する確信をもって全てを委ねていました。どれ程慰めに満ちた言葉を彼は語ったことかと思います。しかし極限状態では言葉はなかなか人々の心に届かなかったのではないでしょうか。
 パウロは「「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。」(27:33b−36)。ただ語るだけでなく、怯える人々の目の前でパンを取り神に祈り、それを割いて食べるという行為を行った。それを見ていた人々は、ようやく少し落ち着いて、同じように食べ物を口にすることができたのでしょう。そしてそこからは、自分の命を繋ぎとめる絶対に必要なものと思われている一つひとつを切り捨て、ほどいて行く作業に向かいます。先ず保管している食料をすべて棄てます。「十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。」(38)。舟を係留している「錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き」(40)、舟を漂うにまかせます。そしてついには舟さえも見限り「泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで」(43−44)、ようやく「全員が無事に上陸した。」(44)のです。それはまるで、自分のからだに絡みつく常識を解き、棄て去り、からだひとつで神の導きに全てを委ねて行くさまそのものでした。すべてがほどかれたときに、人々は島に流れ着き、上陸を果たしたのです。
 棄て去ることによって、ほどかれることによって、わたしたちは本当の自由を手にすることが出来るのかもしれません。

 祈ります。
 すべての者を愛し、導いてくださる神さま。わたしたちのからだに巣くう自縛の縄目を、神さまの力によって解き放ってください。この身ひとつであなたの前に立つとき、それが自由をもたらすものだと信じることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

四谷快談 No.172 人と人とのふれあいこそ

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