ミカ7:14−20/使徒24:10−21/ヨハネ5:19−36/詩編96:7−13
「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。」
(使徒24:15)
パウロは随分大胆なことを言いました。「正しい者も正しくない者もやがて復活する」。
コリントの信徒への手紙1でパウロはこんなことを書いています。「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(Ⅰコリント9:22−23)。ここを読む限り「何とかして何人かでも救う」ためにパウロが苦闘している様子が伝わってくるのですが、その苦闘によってでは「何人かでも救う」に留まってしまうことに対する焦りのような感情も伝わってきます。つまり、パウロの中には自分が福音を宣べ伝えなければ救われない人が出てくるという切羽詰まった思いがあるのではないか。
ところが今日お読みいただいた使徒言行録は、もちろんパウロが書いたものではないからパウロの思いがそのまま反映されているとは言えないかも知れませんが、それにしても「正しい者も正しくない者もやがて復活する」ということは、復活イコール救いと考えたら、救われない者はいないことになります。あるいはコリントでパウロが焦っていたような、自分ががんばって福音を伝えることで何人かでも救いたいということとも大分違って見えるのです。
マタイ福音書はイエスのこんな言葉を記しています。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(5:44−45)。太陽の光や雨は確かに善人であろうと悪人であろうと関係なく与えられています。イエスはそれを神がすべての人を愛しておられることのしるしとして示されました。その上でその神に近づきたいなら「自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられたのです。隣人を愛する正しい人なら敵を呪っても構わないしむしろ推奨されていました。そういう常識の中でイエスは「自分を迫害する者のために祈りなさい」と教える。しかもそれをしなければ救われないという行為称賛ではなく神の業に応える者の生き方としてそれを示されたのでした。だからイエスの教えは、時の常識を突破したのです。
でもしかし、わたしはイエスのその言葉をなかなか受け入れられません。だってそうじゃありませんか。わたしには敵がいるのです。どうしたって自分の邪魔ばかりする。その敵のせいで事がうまく運ばない。存在を否定したくなるような敵です。ところが、その敵である彼もまた、神さまによって救われる人なのだ。彼の上にも太陽は照り雨は降り、あろうことか彼もまた復活するという希望に生きることなんて出来ません。それどころか今すぐ滅ぼしてくださいと叫びたい。
彼がわたしにとっての敵であるならば、わたしはきっと彼にとっての敵でしょう。その確率はおそらく99.8%くらいでしょうか。するとどういうことですか。彼もまたわたしに対してすぐに消えてほしいと願っている、すぐに滅ぼしてくださいと祈っているということです。
正しい者と正しくない者とが同じだなんて絶対受け入れたくない。正しい者──つまりわたしは褒賞を受けるべきだし、正しくない者──つまり彼は滅ぼされるべきだ。けれどおそらく99.8%の確率で、彼もまた同じことを思っている。それがわたしの現実なのです。
使徒言行録のパウロは、自分に不利になるのを敢えて承知の上で、しかし正当な手続きによって裁かれることを望みました。それはやはりパウロが「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。」灯心年賀ブレなかったと言うことなのでしょう。その希望に生きているからこそ、どんなに不利であっても正当な手続きを望むことが出来たのです。一方わたしは「自分こそが正しい」という思いにいつまでも凝り固まったままです。なんという不自由でしょう。しかもその不自由から抜け出す道を示されているにもかかわらず、です。わたしはいつかどこかで、わたし自身に対して白旗を揚げるしかないのです。凝り固まった思いをきれいさっぱり捨て去ることしか自由になる道はないのですから。
祈ります。
すべての者を愛し、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる神さま。あなたのその恵みゆえに命を与えられ生かされているにもかかわらず、わたしは自分の正しさに縛られて不自由なままです。そんな負の螺旋からわたしを解き放ってください。神さまは悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださることを自分の心とする日まで、どうぞ導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。