マルコ福音書はイエスの墓の中にいた白い衣を着た若者の言葉で終わっている。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(16:7)。おそらく、わたしたちがイエスに出会おうとしたらガリラヤに行くしかないということなのだろう。そしてそれは「一人ひとりにガリラヤがある」ということでもある。
福岡から弓町本郷教会に転任された西岡裕芳牧師は「ガリラヤではなくエルサレムのような町の教会に行くことになりました」と仲間に話したら、すかさず「ローマじゃない?」とツッコまれたという。座布団一枚に値するツッコミ。だが首都圏で18年過ごしたわたしにとって、ここはローマと言うよりはコリントだな、とさらにツッコミを入れたい気持ち。そのココロは…ちょっと書けない(^^ゞ
お笑いのネタとして東京(首都圏)がガリラヤかエルサレムかローマか(コリントか)は良く出来ている(と思う)が、つまりその場所に自分を置いて、その場所のあらゆることを自分のこととするときそこがその人のガリラヤとなり、そこには既にキリストがおられる(た)のだということがマルコのメッセージなのだろう。当然ながら(たくさんの)課題があり、それに引けを取らないたくさんの喜びもあるような。それがガリラヤ。
今回新生会教師会で瀬戸内の島々を訪ねた。2日目のフィールドワークは瀬戸田教会から原集会所、大三島教会跡地の「祈りのテラス」、因島土生教会、田熊幼保連携型認定こども園、重井幼稚園、そして今治の日本基督教団岩城教会を廻った。それぞれ小規模な教会・伝道所で、様々な課題(かなり深刻なものも)を抱えてもいた。まさにガリラヤ。
自分の身を置いてあらゆることを身に引き受けるということは他と比べようがないユニークなこと。だからガリラヤは地方とは限らない。世界中至るところにユニークなものとしてあるのだ。
2024
30Jun