ホセア14:2−8/使徒9:36−43/ヨハネ4:43−54/詩編49:13−21
「ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。」(使徒9:40)
今回教団新生会教師会は瀬戸内海の島々を巡りました。それは昔舟によって瀬戸内の島々に宣教した福音丸の足跡を訪ねるためでした。
福音丸は1899年横浜の本牧で建造され、12月2日神戸を出港し瀬戸内海に向かいました。この初代福音丸は1911年までの12年間就航しました。内海伝道の拠点となる小豆島では1900年には小豆島講義所が建てられます。1901年には瀬戸田講義所が建てられ、1906年には瀬戸田遊戯園、現在まで続く博愛幼稚園がつくられます。1909年4月、日本におけるバプテスト伝道50周年を記念して福音丸は「動く教会」として福音丸浸礼基督教会設立式を行います。さらに聖書頒布のために和船の第二福音丸が建造され、さらに2造福音丸も建造されます。この2造福音丸の頃が最も大きな業績を残した時代でした。伝道の拠点は小豆島の土庄(とのしょう)、因島の土生(はぶ)、生口島の瀬戸田、大三島の宮浦、周防大島の安下庄(あげのしょう)、更には壱岐、対馬、平戸、五島列島にまで及んだといいます。
しかし1917年5月、ビッケル船長は過労のため神戸聖バルナバ病院で亡くなり、神戸バプテスト教会、今の神戸聖愛教会の前身のひとつですがその教会で葬儀が執り行われます。さらに戦争へと突き進む中、舟は売却され、その資金を基に5箇所の伝道拠点にそれぞれ5つの教会が建てられ、しかも自給できるように幼児施設等も併設されます。
戦後も3造福音丸、4造福音丸、5造福音丸がそれぞれ建造され、1951年から1982年まで、伝道範囲は狭まったとは言え舟による宣教は続けられます。建てられた5つの教会の内、大三島は教会解散して現在は更地になっていました。周防大島の安下庄は売却され、巡り巡ってカトリックの信徒が現状のまま管理を続けているそうです。土庄、土生、瀬戸田は再建を経て現在も続いているわけです。
その紆余曲折する長い歴史を貫いたのは、御言葉・福音を伝えたいという篤い祈りと願いでした。ビッケルという人の類い希な人格ももちろん用いられたのですが、その能力というより、祈りこそが用いられたのだと思います。
リダという町で8年も寝たきりだったアイネアを癒やしたペトロのところへヤッファから二人の弟子がやって来て急いでヤッファへ来いと言います。取るものも取りあえず出かけていくと、みんなから慕われていたタビタという弟子が亡くなったところでした。彼女はたくさんの良い行いや施しをして多くのやもめたちを助けていたのです。そこでペトロは急遽ヤッファに向かいます。彼は医者ではないし、当然ながら葬儀社の人間でもありません。必要な道具もそれどころか持ち物だっておそらく何も持たずにいたのでしょう。そんなペトロが死んだ人に会いに行ったところで医者でもなく葬儀社でもない、何も持っていない人に何か役に立つ出来ることがあるでしょうか。
しかし彼はひとつのことを、ひとつのものを、そしておそらくそれが唯一のものを持っていた。それが「ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言う」(使徒9:40)言葉でした。それはリダという町で8年間寝たきりだったアイネアを癒したあの時も同じでした。「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」(同9:34)。
ペトロは言葉ひとつを携えていたのです。それは祈りの言葉であり、人を生かす言葉でした。言葉ひとつ携えて福音を示し、福音を伝えたのは125年前のビッケル船長も同じでしょう。そして神さまは、おそらくわたしたちにもたったひとつのこととして「祈る言葉」を与えてくださっているのです。わたしたちは力とか能力とか人間的な魅力とかが何もないとしても、「言葉」が与えられている。それひとつ携えて祈るときに、神が力を示してくださる。今回の新生会教師会で、わたしはその現場をこの目で見てきた、その成果をこの目で見てきたのでした。
祈ります。
すべての者を愛し、わたしたちの弱さと過ちにもかかわらず導いてくださる神さま。祈りの言葉ひとつを携えてペトロはタビタを癒しました。彼女を失って嘆き悲しんでいる多くの人たちに、神さまはペトロの祈りに応えることで、力を示してくださいました。それは多くの人の喜びになったのです。わたしたちにも言葉が与えられていることを思います。祈りの言葉を携えてここから遣わされて行く場所で出会うさまざまな人と共に、あなたを見あげることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。