ヨナ4:1−11/エフェソ2:11−22/ヨハネ4:27−42/詩編126:1−6
「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エフェソ2:18)
わたしたちは今日、「沖縄の日・教団創立・旧6部9部弾圧」を憶えます。3つの日付を年代順に並べ替えれば、教団創立が1941年24日、弾圧記念日が1942年26日、沖縄の日が1945年23日です。出来事が起こった年代順に並べ直して、もう一度これらが何の日だったかを簡単に見ておきたいのです。
1941年6月24日は日本基督教団が創立した日です。事柄に則して言うと、教団の創立総会が開かれた日です。諸教会はかねてよりこの日本における福音主義教会各派がそれぞれの教派を越えて合同しようと願って始まったのが教団でした。このことは教団教憲の前文にも出て参りますし、「第2次大戦下における日本基督教団の責任の告白」にも出て参ります。「教憲前文」には、それが「くすしき摂理のもとに御霊のたもう一致によって」と表現されています。さらに「日本基督教団成立の沿革」には「たまたま宗教団体法の実施せられるに際し、1940(昭和15)年10月17日東京に開かれた全国信徒大会は、教会合同を宣言するに至った。」と記しています。ということは1941年の創立総会前に教会合同が宣言されたわけですが、「合同宣言」がなされた全国信徒大会の正式名称は「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」でした。ですから「たまたま宗教団体法の実施せられるに際し」「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」で宣言されて、そして始まったのが日本基督教団だということです。
教団創立の翌1942年6月26日未明、教団第6部・第9部所属のホーリネス系の教職96名が治安維持法違反で特高警察により検挙され、後さらに20名が追検挙されます。行政当局はすぐさま201教会63伝道所に解散命令を発します。司法当局は検挙された教師を特に組織の中心人物ほど罪を重くする判決を下します。教団は解散を命ぜられた教会主管者、廃止された伝道所代表者に自発的辞任を勧告し、その他の両部教師に謹慎を命じました。この一連の出来事は政治的に仕組まれたものでした。ですから、検挙された個々の教師がどのような言動をとっていたのかは問題にされませんでした。実際に検挙された教師たちも、検挙を免れたホーリネス系のその他の教師たちも、なぜ検挙されたのか、されなかったのかはわからなかったと言います。ところが、弾圧されなかった日本基督教団の教会関係者には、この検挙が当然のものと写ったり、累が及ぶことを何よりも恐れて、一層当局の望む方向に突き進みます。「ますます天皇に忠誠を励むように」という通達文書が総務局長から各教区長へ送られます。さらに、第6部・9部の教職・信徒に対してその信仰を「錬成」し直し、教会や伝道所を「更生」させようと努力したのでした。こうすることによってホーリネスの教職・信徒の信仰のアイデンティティーを、日本基督教団自らが剥奪した。これこそ宗教弾圧で、しかも身内が行った。
日本基督教団の始まりが「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」であること、「宗教団体法の実施」に際したことだったというのは決して偶然ではなかったのです。日本基督教団は、人間を神とする日本・天皇教の中に組み入れられることを積極的に求め、自己の安寧を諮ったということでしょう。
1945年6月23日。沖縄で日本軍による組織的抵抗戦が終了した日とされている日です。牛島中将が自害した日をもってそうしたのです。島は今朝も早くから祈り一色に染められています。統計によればいわゆる「沖縄戦」によって亡くなった市民の80%は6月23日以後に亡くなっている。戦闘行為は9月7日まで続けられたそうです。これは牛島中将が自決に際し「爾後各部隊ハ各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ。」と指令していたことに関係があります。多くの人が終結宣言のあとで亡くなっている事実は、6月23日で沖縄から戦火が消えたのではないことを端的に示しています。それどころか沖縄は天皇の存置と引き換えに米国に売り渡され、1972年5月15日になってようやく施政権が返還されました。この間日本基督教団は、沖縄への施政権が米国に渡ったことから九州教区沖縄支教区をなんの意思決定もせぬままに切り捨てました。尤も何の意志決定もせずに切り離されたのは朝鮮支教区や台湾支教区、樺太支教区も同じでした。「中国残留孤児」の問題などは教団の問題だとは思わないのかも知れませんが、本質は一緒です。敗戦によって日本基督教団は全てを免れ、すべてを忘れたのです。
敗戦後日本を占領した戦勝国はキリスト教国だったゆえに、敗戦後の混乱を制して再建に向かうために連合軍は日本のキリスト教をチャンネルとして活用しました。その結果、日本基督教団は全てを免れ、すべてを忘れることができた。教団の戦争責任などが問題になることはなかったわけです。公式に戦争責任に言及したのは1967年です。旧6部9部の教会関係者に教団総会の場で謝罪と悔い改めを行ったのはそれからさらに20年後の1986年です。
エフェソの信徒への手紙でパウロが「一つ」を強調するのはその必要があったからでした。異邦人とユダヤ人とが「イエスの十字架」によって隔ての壁を取り壊すところで初めて「一つ」となるのです。強い方が弱い方を打ち負かして一つとなるのではないし、大きい方が小さい方を飲み込んで一つとなるのでもありません。もしあの時に30を超える教派が11の部会として存在する日本基督教団が、この手紙が言うように「一つ」となるために採るべき道、出来る道があったでしょうか。少なくとも日本基督教団は、国家の承認を受けることを何よりも優先し、そのためには日本の国体を受け入れることを躊躇わなかった。6部9部の宣教がこの国体に抵触したことをもって弾圧を受けたとき、教団はそれを切り捨てることによって「一つ」であることを選び、死を覚悟して国家権力に許しを請うたのでした。「時代は繰り返す」と言われます。わたしたちが再び「一つ」となることに脅かされ「一つ」であることが試されるとき、どの道を採ることが出来るでしょうか。「弱さ」が克服すべきことである間は、わたしたちは再び誤ってしまいます。「弱さ」がつくり出すことを本気で信じられるのか。謝罪と悔い改めは、その道を選び取ったとき初めて内実を持つ。そう思えてならないのです。
祈ります。
すべての者を愛し、わたしたちの弱さと過ちにもかかわらず導いてくださる神さま。わたしたちの謝罪と悔い改めが本当のものとなりますように。弱さを用いる神さまあなたを本気で信じるものとなりますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。