ミカ4:1−7/ヘブライ12:18−29/ヨハネ4:5−26/詩編84:1−13
「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」(ヘブライ12:26)
1964年6月16日午後1時を過ぎた頃、新潟県下越沖を震源とする「新潟地震」が発生しました。当時わたしは三歳で、丁度昼寝をしていたのではないかと思われますが、母親に抱っこされて家の外に飛び出し、目の前の電信柱が激しく揺れてるのを見ていた記憶があります。最大震度は5だったそうですが、わたしの記憶する一番古い大地震でした。後に新潟県の高校生となり、日曜日には信濃川沿いのバスセンターからバスに乗って寮まで帰ってくるのですが、そのバスセンターの近くには鉄筋4階建の傾いたアパートがまだ現役で使われていました。この昭和39年の新潟地震で液状化現象により傾いたものでした。
その新潟で高校三年生の6月12日、今度は宮城県沖地震が発生します。やはり最大震度は5でした。わたしはその日三者面談日でしたが、担任が休んでいたために母親と二人でその教師のアパートに向かい、面談を終えて帰ってくるタクシーの中で異変を感じたのでした。ブロック塀が倒れ死者28名を数える大地震でした。
主に東北地方で人生の3分の1を過ごしていますので、小さな地震はいつもありましたが、この二つは非常に大きな記憶として残っています。しかし2011年にはそんな記憶を遙かに凌駕する大地震を川崎で経験します。東北地方太平洋沖地震、いわゆる3・11です。丁度横浜の取引銀行に顔を出しての戻り道、大きな、そして長い揺れがたてつづけに2回起こり、目の前で高速道路の表示板が巨大なまさかりのように揺れる様を見ていました。川崎でも震度5強を記録したようですが、私の生涯においても最も大きな巨大地震でした。
地面が揺れるというのは、やはり人間の体にただ事ではない感覚を生じさせるような気がします。3・11以後わたしは、なんでもないのに体が揺れを感じるようなことが何度もありました。記憶の深いところにその感覚が「厭な感覚」として刻みつけられたからではないかと想像します。その証拠に、気分が良いときにはそういう感覚にはならないのです。疲れているときとか休まらないときに時々そういう感覚に襲われる。不思議です。
そしておそらく人類が誕生して以降、数え切れないほどの地震に遭遇し、それを記憶するために、様々なところでそれが記録されてきたのではないかと思います。聖書の中にも地面が揺り動かされることを例えば終わりの象徴として記している箇所がたくさんあります。あるいは「神の臨在」を象徴する出来事として、地が揺り動かされるという表現を用いている箇所もあります。口伝で伝えられていた頃から文字に取って代わっても、大地震の記憶を語り継いでいるということでしょう。
セシル・デミル監督は映画「十戒」を2度つくっています。その2度目、つまりリメイク版が1956年版です。チャールトン・ヘストンがモーセを演じました。その中でモーセが神の山に登ったきり帰ってこないので、人々は金の子牛をつくり、「これこそ我らの神」と崇め祭の大宴会を開く場面があります。十戒の石の板を授かったモーセが山を下りて、乱痴気騒ぎを繰り返す人々にその石の板を投げつけると、民を唆したデイサンたちは大地震によってできた地の割れ目に落ち込んで、人々を恐怖が襲う。そして神は人々を試すために40年荒野を放浪させたのでした。
今日ヘブライ人への手紙で描かれている恐怖は、わたしにとってデミル監督のあの場面を彷彿とさせるものです。神の臨在とは人々にとって恐怖そのもの、大地震のように恐ろしいことだったのでしょう。しかし神はそれによって人々を試しているのだと、この手紙の著者は言おうとしているようです。「この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。」(12:27)。そして真のキリスト者は取り除かれたあとの御国を受け継いでいるのだから「感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」(同28)と呼びかけるのです。
そうやって考えてみると、「神」という存在はやはり「恐ろしい存在」として捉えられているのではないかと思います。「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。」(同29)などとご丁寧に書いています。そして神が恐ろしいということは人が人を支配する上で極めて都合が良いのです。相手に対して「天罰が下る」とか「禍が起こる」とか言っておけば良いのです。その場合、「天罰が下る」という人が正しい人なのかどうかは関係ありません。どれ程の悪人であっても、相手に対して「恐ろしい神の天罰が下る」と言ってしまえば済んでしまうのです。
時々、教会が似たような意味で「神」を持ち出しているのではないかと思うときがあります。イエスは「神」が「恐ろしい」存在ではなく「愛」なのだと示されました。そのように「神は愛」だと説くイエスを「主」と崇める教会が、「神の恐ろしさ」を盾にして人々に従順を説くのです。あるいは「救われた者」という概念を持ちだして信仰が揺り動かされるなんてもってのほかだと説く。でもそうでしょうか。人はそんなに強い存在でしょうか。揺るぎない信仰を抱くことなんて本当に可能でしょうか。逆に揺り動かされっぱなしなのではないか。信仰においては全く心許ないとしか言いようがないのではないか。
だからわたしたちは、わたしたちの彼岸としての「神」が必要なのです。わたしは常に揺り動かされる弱い存在であることを知り、隣人もまた揺り動かされている存在なのだと知り、だからこそ微動だにしない神を共に崇めることだけが、わたしたちに出来る最良の信仰なのではないか。人は神ではないし、神の威を借りて他者を裁く必要もない。ただ弱い存在だと深く自覚するところからしか、信仰はあり得ないのではないか。そう思えるのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの前に何も誇ることが出来ないままで、しかしあなたを信じて従うわたしたちを、神さまは赦し、支えてくださることを主イエスはお教えになりました。神さま、あなたはそういう存在であることを揺るぎっぱなしの心でしかし誉め称えるときに、わたしたちの至らなさや愚かさを赦し、いのちの意味を一人ひとりに与えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。