申命記6:17−25/ローマ10:5−17/ヨハネ3:1−15/詩編29:1−11
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)
わたしたちにはみんな物語があると思います。たいそうな物語も、それほどではない物語にせよ、人が生きるということはそれだけで充分な物語だと思います。そしてさらに人が生きているその物語の行間にはエピソードがあふれている。そういうものなのかも知れません。
クリスチャンとして生きようと思ったこと。それもまた十人十色の物語があることでしょう。そしてひょっとしたら自覚もない自分のそんな物語が、どこかで誰かを励ますことになっているかもしれないのです。わたしの物語はわたしという一人の人間の時間と空間によって編み出されているのだけれど、時間も空間も全くかけ離れたところにいる誰かにとって、その物語がかけがえのないものになる、そんなことも充分に起こり得るでしょう。だから生きるということ、生かされるということって当たり前でも偶然の産物でもなく、天体が宇宙空間で規則正しく動いているように、何者かの意志によってわたしたちも心動かされているのだと思うのです。
イスラエルの人たちは、エジプトを脱出したことこそ民族のルーツだと心得ていました。だから過越の祭を最も大切な祭として祝ってきたのです。その祭のクライマックス、セデルの夜と呼ばれるその時には、ハガダと呼ばれる「出エジプト」の物語が書かれた本を手にして食卓に集い、特別な食事をみんなで一緒に戴きます。その席で一番年少の子どもが一番年長の長老に向かって、「この祭の意味はなんですか」と尋ねることになっています。すると尋ねられた長老はハガダに書かれている出エジプトの物語を読んで聞かせるのです。そうやって毎年毎年、各家々で、自分たちのルーツとなる物語を聞き、語る。それがもたらす成果を些細だと見積もることなど出来ません。その積み重ねがどのような時代にも積み上げられていったことを思うと、とてつもない効果と意義を持っていたと見るべきでしょう。
イスラエルという民族を形づくり、何千年にも亘ってそれを維持し続けさせてきた力の源は、出エジプトの物語で、それが単なる昔々のお話ではなく、今を生きるイスラエルの一人ひとりにとって力を持ち、未来に生きるイスラエルに変わらぬ希望を与え続ける物語なのでしょう。
信仰をもって生きるわたしたちにも物語があるのです。しかもその物語は、わたしと神との出会いから始まります。パウロが語るように「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(ローマ10:14)。わたしたちは神を伝える誰かとの出会いがあって初めて、わたしたちの物語が始まっているのです。ひょっとしたら稀には自力で神と出会う人もいるかも知れません。その出会った方が「神」であると認知できるためには、何を「神」とするのかという知識が必要です。となれば、「自力で神に出会った」人も、どこかで誰かから「何を神とするのか」を聞いていた、あるいは誰かが「これこそ神、これを神とする」という所作を見ていたことになります。たとえ自力で神に出会ったとしても、そこにはやはり「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」という事実があるのです。一方、わたしたちには物語がある。わたしが受けてきたことを次に手渡すことが出来る物語を、わたしたちも持っているのです。これは大きなことです。
わたしたちにとって「信仰の継承」というのは大きな壁です。わたしの家でも例外なくとてつもない壁で突破できていません。それを考える度に、自分の力のなさや努力の不足を思います。でも一方で、例えば日曜日に礼拝に出かける姿を子どもたちは見ています。「行くな」と言われたことは一度もないわけで、少なくても黙認はされているし、ひょっとしたら「礼拝に出かける」という姿に一目置いてもらっているかもしれない。そんなたわいない姿であっても、それ自体が物語としてたくさんのことを語り継いでいるのです。つまりわたし自身が自覚があろうとなかろうと「宣べ伝える人」になっている。それは驚くべきことです。であればわたしに出来ることは、そのたわいないことをこれからも続けて行くだけです。その結果を神さまが引き受けてくださる。そう信じることではないでしょうか。
イスラエルが「出エジプト」こそ自分たちのルーツだと信じ、それをことあるごとに語り継いできたように、わたしたちにも一人ひとり、神と出会った物語が、ルーツがある。その事実を生き続ける時、その物語を神さまが用いてくださる。それを信じて歩みを続けたいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしがあなたに出会えたのは、このわたしにあなたのことを教えてくれた人がいたからでした。そして今、そんなわたしのたわいない物語をも神さまが用いてくださるのだと知りました。わたしの全てをまるごと神さま、あなたが用いて「宣べ伝える人」にしてくださっていることを感謝します。喜んでわが身を差し出すことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。