列王下2:1−15/黙示録5:6−14/ヨハネ7:32−39/詩編46:1−12
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。」(ヨハネ7:33b-34)
わたしはしょっちゅう捜し物をするタイプです。年齢を重ねたせいだと自分に言い聞かせていますが、ホントはそうではありません。謂わば性格的な欠けです。
しょっちゅう捜し物をする人には、性格的なタイプがあるというのです。「あとで作業しやすいように」と先を読んで行動したつもりが、しまい場所を忘れるタイプの人。効率重視、同時進行であれこれやるうちに無意識にモノを置いて探してしまうタイプの人。収納能力に自信がありルール作りをするが、実はそのルールが問題だったりするタイプの人。そして「とりあえず置いとく」ことで忘れてしまうタイプ。これはあるお助けサイトに出ていた分類ですが、わたしは2と4の複合タイプのような気がします。つまり、効率重視で同時進行し、その途中で「とりあえずここに置く」とした場所を忘れてしまう。
で、そういう忘れっぽい生活の中でアルアルなことが、何度も探した場所にあったりすることと、落ち着いてみたら目の前にちゃんとあったということです。最初のアルアルは、どうも自分の心の中で「そんなところにあるはずがない、わたしがそんなところに置くはずがない」と言い聞かせつつとりあえず探しているから、1回で見つからず、というパターンです。困ったのが二つ目。ちゃんといつもの場所に置いてあるのに、必死で探している最中にはそれがあるのに見えなくなってしまうこと。これは多分に精神的な構造の問題かもしれないと思ったりしてます。
復活の朝の話を3月31日の礼拝でいたしました。「マグダラのマリアに至っては、主ご自身を主体的/能動的に見ていたのに、それを「園丁」だと認識してしまいます。見ている事実の向こうに真実があったのに、彼女もそれを見ることができませんでした。見ているのに見えない。見ているだけではわからない。気づけない。自分が自分で見ているのに。」
彼女はおそらく木曜の夜から心そこに非ずの心理状態だったのだと思います。その時イエスは弟子たちの足を洗い始めます。それからまるで遺言のように様々なことを教えられ、残される者たちのために祈りました。それからいつものように祈りの場所に出かけていったら、そこでイエスが捕らえられてしまう。男の弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。女たちは「女」だったがゆえに数に入れてもらえないことが幸いし、危害を加えられることはなかったけれども、屈強な兵士たちに抗うことなど無意味でした。金曜日になると未明からずっとイエスはあちこちに引き回されて、裁判などと呼べない裁判にかけられ、嘲笑され、侮辱され、そしてついに十字架刑の判決が下される。午後になると十字架に磔にされ息を引き取られた。アリマタヤのヨセフとニコデモがイエスの遺体を引き取り、急いで埋葬のしきたりを整え、誰も葬られたことのない墓に埋葬しました。その翌日は祭の最中の安息日、特別な日。何をすることも出来ません。気持ちが乱れる一方でした。だからその特別な日が明けたまだ薄暗い中で、彼女は墓に向かって行ったのです。何が出来るわけでもない、でも、何かしないではいられない。ところが墓に着くと、その墓がからっぽだった。一体何が何だかわからず、増し加わる不安に駆られて弟子たちのところに駆け込んだのです。弟子たちに事の次第を告げる彼女ももちろん、その話を聞いている弟子たちも頭の中が真っ白になったことでしょう。二人の弟子のあとについてマリアはもう一度墓の前に立ちます。二人の弟子は頭を抱えながら帰ってしまう。一人残された彼女が墓の中を覗くと、二人の人が見えます。彼らは「なぜ泣いているのか」と聞く。「そりゃ泣くでしょ」と答えると後ろにもう一人立っているのがわかる。きっとその人が、ここにあるはずの遺体をどこかにやってしまったに違いないと思った。でもその人こそがイエスだった。心ここにあらず之状態の彼女には、イエスを観ているのにそれがイエスだとは思いもしない。無理はありません。
捜し物がいつものように机の上の定位置に置かれていても、「ない、ない」と焦るわたしにはそれが見えない。見ているのに。この目で。
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。」(7:33b-34)というイエスの言葉は、確かにあの朝マリアの身の上に起こった事実でした。わたしたちもイエスは居るべき場所におられるという事実を知っていても、見出せなくなるのかも知れません。そんなわたしたちは、一体どこでイエスを見つけるのでしょう。
ヨハネは、イエスが天に昇られたということを自分の福音書に採用しませんでした。その代わりヨハネが記したイエスの最後の言葉は「あなたは、わたしに従いなさい」(21:22)でした。「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」(7:34)とイエスは言うのです。しかしそのイエスにわたしたちは従って行くのです。イエスを探しながら、イエスの足跡を訪ねながら、わたしたちはイエスに従って行くのかも知れません。誰も、イエスを手にしていないし、手にできないのです。イエスを自分のものにすることは出来ない。自分の都合よくイエスを使うことは許されないということなのかも知れません。そしてあそこに、ここに、イエスを訪ね、探し、見つけ出して従って行く。それがわたしたちの信仰なのかも知れません。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたへと導いてくださる主イエスがどこにいらっしゃるのか、わたしたちには見えない時があります。探しても探しても見出せない時があります。しかし、見出せないそんな「時」も、あなたがご支配なさっておられる「時」なのです。神さまや主イエスを自分に都合よく使うことをあなたはお許しにはならないのです。そうではなく、謙って常にあなたを、そして主イエスを探し見出しつつ歩む者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。