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2024
14Apr

「徒労ではない」滝澤 貢牧師

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イザヤ61:1−3/Ⅰペトロ1:13−25/ヨハネ21:1−14/詩編145:1−9

「弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」(ヨハネ21:12b)

東北地方太平洋沖地震、いわゆる3・11の震災があったあと、『呼び覚まされる霊性の震災学──3・11生と死のはざまで』という本が出版されました。これは「東北学院大学震災の記録プロジェクト」の中の一冊です。
とても話題になった本なのですが、何が話題になったかというと、その第1章に取り上げられている「死者たちが通う街:タクシードライバーの幽霊現象」という学生の聞き取り調査の報告が大きな反響を呼んだのでした。
震災以降、季節外れの真冬のコートを着た乗客がタクシーに乗り、行き先を告げるものの、気づいたらいないという「不思議な現象」について、そんな体験をしたドライバーたちに聞き取りをしたものです。例えば、夏の深夜、コートにマフラーで一人佇んでいた小学生くらいの女の子。「お母さんとお父さんは?」と尋ねると「ひとりぼっちなの」と言うので家の場所を聞き、送っていくもののタクシーを降りた瞬間にスーッと姿を消したとか、6月なのにダッフルコートに身を包んで乗車してきた青年は、「彼女は元気だろうか?」と言い、気がつくと姿はなかったという話しです。いわば怪談の定番のような話しですが、ドライバーたちの反応は少し違っていました。「実際に自分が身をもってこの体験をするとは思っていなかったよ。さすがに驚いた。それでも、これからも手を挙げてタクシーを待っている人がいたら乗せるし、たとえまた同じようなことがあっても、途中で降ろしたりなんてことはしないよ」というような反応なのです。「幽霊」と口にすると「そんなふうに言うんじゃない!」と怒鳴るドライバーがいる。「幽霊」の話だけど、でも違う。そこには、少し前まで当たり前に生きていた誰かの存在が無数にある。だからこそ、「幽霊とは違う」という言葉が出てくる。そういうことが書かれています。
ドライバーさんのお身内にも震災や津波で亡くなった方がいる、あるいは身近な方が被害に遭っている。そういう関係性の中に身を置いているから、こういう「怪談」の典型が決して「怪談」ではなく、ひょっとしたら自分がそこに佇む側だったかもしれないという感覚だったり、それが身内の誰かかもしれないという思いがあったりするのかもしれません。震災と大津波を経験した人たちにとっては、不思議な現象をもたらした幽霊たちにも特別な感情があるわけです。その「幽霊」たちに、当たり前に生きていた無数にある「誰か」の存在そのものを見る。だから「幽霊」なんていって蔑むんじゃないと怒られる。現象自体を誰も怖がらないのです。
わたしたち家族には山口県防府市にいた頃から飼っていたミニチュアダックスフントみみちゃんがいました。川崎にいた時分に病気で亡くなったのですが、その後しばらくしてリビングにいた私たち夫婦は、牧師館の廊下を歩くみみちゃんの足音を聞いたのです。二人同時に、しかもいつもの足音をです。まるで怪談話ですがちっとも怖くない。むしろ「帰ってきてくれた」という思いの方が強かったのです。そういうことなのかもしれません。
わたしたちが理性的に考えるこの世界と死後の世界は、わりと厳格にわけ隔てられていますし、近代化が進むと、「死」という事柄はだんだん手の届かないものに変えられていってしまいます。昔の火葬場を知っている人にとっては、今の火葬場は全くイメージが違っています。でも、本来、生きていることと死ぬこととの間に厳密な区切りをつける方が無理があります。紙一重ほども違っていないのかも知れません。特に死者との間に特別な感情を持つ者であれば、それはなおさらではないでしょうか。
しかしわたしたちは、それを半ば強制的に区別されて、それによって辛うじて普通の生活を送ることができる。逆に言えば事柄を引きずることを許されないし自分でも許さないのかも知れません。
イエスの復活の目撃者たちは、その誰もがイエスとの間に特別な感情を持っている者たちでした。だからその特別な感情を刺激されたとき、目の前の人があのイエスだということが分かるのです。マグダラのマリアは「イエスが、「マリア」と言われる」(20:16)と、すぐにそれがイエスだとわかりました。弟子たちはイエスが入ってきて「「あなたがたに平和があるように」と言われた」(20:19)ときに、喜んだのです。今日の箇所で言えば、イエスと共に食事をするその時に──生前のイエスは弟子たちをはじめ様々な人たちと一緒に食事をすることを最も大切なこととされていたのでしょう──その所作を見て、確かにイエスだとわかっています。「弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」(21:12)。
よそ者から見ればそれは幽霊かも知れない。関わりのない人にとっては死者が目の前に立つことは、亡霊であり幽霊でしかないのです。恐ろしいことであり忌まわしいことです。でも、特別な感情を持つ人にとっては、恐ろしいことでも忌まわしいことでもない。むしろ現れてくれたということに示される意味を読み取ろうとするに違いありません。
弟子たちは一晩中働いて一匹も魚が捕れない現実を抱えて帰ってくる。しかし「舟の右側に網を打ちなさい」(6)との声に従った時、ものすごい量の魚が捕れる。漁師なのに魚が捕れないという出来事の中に、わたしたちの費やしてきた多くの徒労が込められているのです。そしてわたしたちの労苦が、イエスの復活によって、イエスの言葉によって、徒労でなくなる時が来る。そんな物語に変えられていくのです。「主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」(詩編145:9)。

祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの復活によって、わたしたちの費やしてきた労苦が一つも無駄ではなく、徒労ではなくなったことを知らされました。感謝いたします。あなたがこの地上でなさったことをわたしたちもまた同じようにすることが出来るように、一人ひとりに小さな一歩を踏み出す勇気を与えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

四谷快談 No.159 時が満ちて(廻って?)

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