出エジプト15:1−11/Ⅰペトロ1:3−9/ヨハネ20:19−31/詩編118:13−25
「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(ヨハネ20:20)
先週、「見る」ことの危うさについてお話ししました。こういう話です。
「正確に言うならば彼らが自発的に、能動的に「見た」のではなく、「見させられた」のです。二人の弟子が見させられたのは、墓が空であるという事実です。事実の向こうに真実があったのだけれども、彼らはそれを見ることができません。マグダラのマリアに至っては、主ご自身を主体的/能動的に見ていたのに、それを「園丁」だと認識してしまいます。見ている事実の向こうに真実があったのに、彼女もそれを見ることができませんでした。見ているのに見えない。見ているだけではわからない。気づけない。自分が自分で見ているのに。わたしたちの認知、認識とは、そういうものなのかも知れません。」ということです。
ところで福音書は様々な目的で書かれていますが、そのどれもイエスの死と復活がとても重要なテーマであったことは良くわかります。キリスト教はイエスの復活から始まったのです。そしてイエスの死と復活をめぐる一連の出来事は、福音書においても決して粛々と信仰深い洞察のもとで書かれているわけではないことがわかります。つまり、登場人物の中に不信仰とか戸惑いとか畏れとか、およそ「敬虔な」クリスチャンにはあってはならないと思えるようなことも、かなり正直に、詳しく書かれているのです。
イースターには必ず、空っぽの墓のことが語られます。わたしたちはイエスが復活したと知っているのだから、墓が空っぽであることは何の不思議もありません。でも、本当にイエスが十字架で死んだことを見た人たちには、それはやはり戸惑いと畏れを生む出来事、あるいは何か裏があるとしか思えない出来事だったはずです。ヨハネ福音書がこの事を取り上げている箇所を見ると、そこにはマルコよりもっと古い伝承が取り上げられていることがわかります。
先週読んだ箇所、ヨハネ福音書20章に「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(2)というマリアのことばがあります。口語訳聖書はもっとハッキリ書いています。「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません。」(2)。マリアが「誰かが」という時、その逆の立場から情報を伝えている福音書がマタイです。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。」(マタイ28:13)。これは同じひとつのことを全く反対側から証言している面白い箇所です。イエスの関係者はユダヤ教徒がイエスの死体を侮辱したと考えており、ユダヤ教徒側はイエスの弟子たちが自分たちに有利になるように遺体を隠したと思っているということです。そして、つまり両者にとって「遺体が消える」ということがとてつもなく大きな困惑だったのです。
つまり、「復活」が困惑の元だった。誰もまだ見たこともないことが目の前で起こる。それを見る者にとっては、目の前に見えることが現実なのか夢うつつなのか誰にも確証がないわけです。それほど衝撃的なこと、理解不能なこと、未経験なこと、今風にいえば想定外な事なのです。
イエスが十字架で殺されたというその事実は弟子たち、特に彼らが見捨てたゆえに十字架で殺されてしまったイエスの弟子たち、そしてイエスと特別に深い関わりを保ち続けてきた女性たちにとって、それがどれだけ衝撃であったかはわかりますが、それと同等に、あるいはそれ以上に衝撃だった出来事が、イエスの遺体が消えるということだったと分かります。悲しみのダブルパンチ、衝撃のダブルパンチです。そしてここがとてもとてもドラマティックなのですが、衝撃のダブルパンチに打ちひしがれた者だけが──弟子たち、そして女性たちこそが──イエスの顕現に引き合わされるのです。その瞬間、あの衝撃のすべてが分かった。もちろん瞬間的にとか直感的にとかばかりではなく、何度も繰り返される顕現体験によって徐々に、ということでもあったでしょう。
そしてヨハネ福音書を読む人たちの中には、この衝撃のダブルパンチをまったく知らない人たちがたくさんいたのだと想像します。その人たちの代弁者こそトマスその人です。そしてトマスはわたしの代弁者でもあります。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(25)。わたしもダブルパンチに遭遇しなかったら信じることなんて出来ない。見ていないし触れてもいない。トマスはわたしの心を語っています。それに対してイエスは自分の手と脇腹をお見せになる。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。」(27)。
冒頭「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(20)という箇所を読みましたが、「見て喜んだ」と言うより先にむしろ、主がいつもの通りいつもの言葉で弟子たちに語りかけたその言葉を聞いて、弟子たちは驚き怪しんだと思うのです。一方で確実に聞き覚えのある声、でも一方で「死人がよみがえるわけがない」という常識。その二つの狭間にあって驚き怪しんでいる弟子たちに「手とわき腹とをお見せになった」(20)から「弟子たちは、主を見て喜んだ。」のだと想像します。だからあのトマスに対する主の言葉は、トマスより先に「わたしたちは主を見た」(25)と言ってちょっとマウントをとっている10人の弟子たちにも向けられている言葉ですし、トマス本人にも、そしてトマスに自分の思いを代弁してもらっているヨハネ福音書を読んでいる人たちにも──そしてこのわたしにも──その言葉は迫っているのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27)「見ないのに信じる人は、幸いである。」(29)と。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたはわたしたちを愛し、赦し、支え、導いてくださることを知らせてくださったことを、主の復活の不思議な出来事を通して再び確かに知るように、わたしたちにお示しくださいました。疑い、惑い続けるわたしたちを、あなたは見捨てず、主イエスの執り成しを受け入れてくださいます。感謝します。たとえ疑いながらでも、迷いながらでも、あなたを信じ主に従う者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。