イザヤ55:1−11/Ⅰコリント5:6−8/ヨハネ20:1−18/詩編30:1−13
「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55:11)
静かな朝、夜明けです。つい三日前エルサレムを騒がせた事件があったのに、この夜明けはまるっきり静寂でした。そもそも夜明けとはそういうものなのかも知れません。
──一本目──
わたしはゆえあって人の臨終の時に立ち合わせていただきました。牧師という職業ですからそういうこともあります。ただ最近は牧師のことを慮って、「もしもの時は夜中でも電話ください」とお願いしても、大体夜が明けきってからお電話くださる方が多いので、臨終に立ち合うことはめっきりなくなりました。でもその時は立ち合ったのです。夜中からナースセンターの隣にある一室にご家族の方と一緒にそこにいました。最期のひと息を吐き、しばらくしてももう息を吸うことはありませんでした。神さまが彼女の息を引き取るまで見届けたのでした。空が白み始めていました。病院は何事もなかったかのようにいつもの朝の時間を迎えました。病室を回る看護師さんたちの足音、掃除の音や食器が触れ合う音。ナースセンターの隣の部屋で、息を引き取った人の周りに座っていながら、扉一枚向こうに普段と変わらない日常が始まっていくその音を、それが当たり前なのだけど、なんだか妙に不思議な気がして聞いていたのでした。
──二本目──
その朝ようやく白み始めた静寂の中に一人の足音が聞こえます。心なしか急ぐその足音。静寂を醒ますほどのことはなく、むしろ闇に紛れるかのような足音です。ところが、しばらくするとその足音が今度は駆け足になって戻ってきた。今度はさっきとはまるで違う、周囲を憚ることもない。ただ一刻も早くという勢いが、静寂を破るようでありました。
──三本目──
金曜の夕方まで続いたあの喧噪、単に騒がしいだけでなく恐ろしいことが起こっていたのに、悲しみではなく行き場のなかった怒りが堰を切ったようにあふれ出したあの日。あれは一体何だったのだろう。起こった出来事は今でも鮮明に思い出せるのに、今となってはそれが事実だったのか幻だったのか、その区別さえつかなくなってしまって、ただただ騒がしかったということだけが耳の奥に記憶となっている、そんなぼーっとした感覚でいたところに、いきなり足音が飛び込んできます。そして「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(ヨハネ20:2b)と。
──四本目──
ぼーっとしていた頭と体にむち打つように、彼らは反射的に外へ走り出します。目指す場所は「だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。」(同19:41)あの場所です。そして彼らはマグダラのマリアが告げたとおりであることを「見た」(同20:6)のです。でもそこで目にしたのは空っぽの墓と亜麻布だけでした。その意味を知ることはなかったのです。却って謎が深まったまま彼らは帰っていきます。そしてその場に一人残されたマグダラのマリアは、愛しい方が自分の名をいつものように呼んでくれたその声に、すべてを理解しました。そして弟子たちのところに再び駆け出します。でも今度は不安も悲しみもなく、喜び勇んで。そして彼らに告げます。「わたしは主を見ました」(同18)。
──五本目──
復活の出来事を告げる聖書には「見る」ということがたくさん書かれています。正確に言うならば彼らが自発的に、能動的に「見た」のではなく、「見させられた」のです。二人の弟子が見させられたのは、墓が空であるという事実です。事実の向こうに真実があったのだけれども、彼らはそれを見ることができません。マグダラのマリアに至っては、主ご自身を主体的/能動的に見ていたのに、それを「園丁」だと認識してしまいます。見ている事実の向こうに真実があったのに、彼女もそれを見ることができませんでした。見ているのに見えない。見ているだけではわからない。気づけない。自分が自分で見ているのに。わたしたちの認知、認識とは、そういうものなのかも知れません。
──六本目──
それを破ったのはイエスが名前を呼んでくださるというそのことでした。その声にハッとしたのです。その声が瞬時に事実と真実を固く結びつけてくれた。イエスだとわかった。ヨハネ福音書はこの後、イエスを見ているのにイエスとわからない人たちがいろいろと登場します。「見る」ということがたくさんたくさん出てきます。そのどれも「見る」ということがとても頼りないのです。イエスの方から「シャローム」と声をかけてくれないと、目の前に見えていることが信じられないのです。なんともったいない、なんとふがいないことでしょう。でも、そういうものなのかも知れません。「いいや、わたしは違う。」と胸を張ることは、なかなか出来ないように思います。
──七本目──
バビロン捕囚から帰ってきたユダヤの人たちが目にしたあまりにも悲惨な故郷の姿。それに打ちひしがれてしまった人たちに、声をかけ励まし続けたのがイザヤ、いわゆる第3イザヤと呼ばれる預言者でした。55章はその第3イザヤの始まりの箇所です。イザヤの励ましは「神の声に聞け」ということでした。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」(55:3)。神様の口から出る言葉は空しいものではない。糧にもならず飢えを満たすものでもないようなつまらないものではないのだ、と。「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(55:11)。この声が聞かれるとき初めて、わたしたちは不安から解放され、喜びに至ることができる。見えているのに真実が見えなかったわたしたちに、真実を見せてくれる──真実へと導いてくださる。それはまさにまことの羊飼いの声です。そして「これを聞け、これに聞け」と神さまは仰っておられるのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちは目によってたくさんの情報を得ようとするのに、見ていながら真実が見えません。わたしたちに真実を示してくださるのは神さまの声。それを教えてくれるキリストの声です。新しい年度、復活の主の声に聴き歩む群としてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。