創世記22:1−18/ヘブライ10:11−25/ヨハネ18:28−40/詩編64:2−11
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:37)
「ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け」と使徒信条で2000年に亘りその罪を告発され続けてきたのがローマの総督です。わたしの感想では2000年もずっと「おまえのせいだ」と言われ続けるピラトが少し可哀想に思います。ピラトはユダヤにおけるローマ総督として、選ぶことのできる選択肢のほとんどない中で、イエスと関わることを何とか避けようとしているのです。ヨハネ福音書はピラトに対してけっこう同情的なのではないかと思います。19章12節には「そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。」と書いてあります。それも、イエスとの間でこんなやりとりをした後です。「そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。」(同10−12)。ピラトの権限をイエスはなんとも思っていないかのようです。自分のことをそういうふうにあしらうイエスを、しかしピラトは釈放しようと考えるのです。
その場面でもそうなのですが、ヨハネ福音書では裁判の間イエスとピラトが様々な会話をしていることが書かれています。他の福音書ではイエスはほとんど何もしゃべりません。唯一「わたしが王だ」という意味のことを告げて、それが決定的な証拠と見做されるのです。しかしヨハネ福音書ではイエスはピラトの問にいくつも答えています。
今日は「しゅろの主日」です。そう呼ばれる発端についてヨハネは12章に書いています。そして、みんなに歓呼の声で迎えられたイエスは、その週の内に十字架で殺されるその運命が分かっているので「今、わたしは心騒ぐ。」(12:27)と弟子たちに胸の内を吐露する。イエスだって人間です。死ぬことが分かっていて、しかも十字架での処刑という当時最も非人間的非人権的な殺され方で死ぬ。それを「神の御心」と笑って受け入れることはできなかった。当然です。むしろ、だからこそイエスなのでしょう。
他の3つの福音書は逮捕される夜イエスがただ一人で神に祈る場面を描きます。血のにじむような、あるいは汗のしたたりが血になるような激しい祈りです。苦い杯をどけて欲しいと祈る。でも神は応えない。あるいは神の答えは人間には聞こえてこない。そうしてイエスは自分の運命を受け入れていくわけです。自分が自分で杯を選び取る。だから他の福音書では、イエスはその後何も語らないのです。語るのは兵士や群衆、つまりイエスを十字架にかける側の人たちだけです。それも罵詈雑言。ところが、この罵詈雑言として言われている言葉が、文字通りイエスそのものを表すわけです。イエスは何も語らないのに、イエスとは何者かが、罵詈雑言によって明らかにされていくわけです。
ところが、ヨハネ福音書はそうではありません。イエスは弟子たちや群衆の前で祈り、教え、語ります。12章の段階でその運命を引き受けられているのです。そしてその運命を引き受けているからこそ、これから起こること、その後に起こることに対して、人々がそれをどう受け止めれば良いのかを教え、語っているのです。その教えこそ神の救いのご計画であり、その救いのご計画がイエスという目に見える人間の姿でわたしたちの前に立っている。まさに言が肉体となったのです。
その圧倒的な迫力を推察出来る場面が18章にあります。「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。」(18:3−6)。イエスが「わたしである」と言うと、屈強な兵士たちでさえ「後ずさりして、地に倒れた」のです。言が肉体となって、その口から放たれた「わたしである」という言葉の迫力が見えるようです。この言葉もヨハネ福音書では特徴です。「わたしは〜である」という言葉がこの福音書にはたくさん出て来ます。あるいは出エジプトの出来事で神がモーセに初めて謁見する「柴の書」で、「神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」」(出エジプト2:14)と名乗ります。有名なチャールトンヘストンが主演した「十戒」という映画ではこの場面で「I am that I am」という神の声が響きます。キングジェームスバージョン、欽定訳聖書のことばです。その欽定訳では「わたしである」は「I am the ROAD」「わたしが主である」と書かれています。モーセに現れた「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3:6)が「I am that I am」であり「I am the ROAD」なのです。
わたしたちは今日から受難週に歩み入ります。木曜日には、イエスが弟子たちの足を洗ったとヨハネ福音書にある出来事を覚えて「洗足木曜日」があり、金曜日はイエスが十字架につけられた「受苦日・受難日」があり、そしてイエスが墓に葬られ、人々は安息日のために外にも出ず、何もしてはならない一日「聖土曜日」を過ごすのです。
これらの日々は闇が支配する日々です。わたしたちの希望も何もかも潰える週です。その圧倒的な闇とちゃんと向かい合わなければ、わたしたちには何も見えないし何も聞こえないでしょう。でも、その深い闇のど真ん中で、見えない神の救いのみわざが進んでいる。わたしたちはそれを信じているのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。受難週に入る今日、その意味を改めて考えました。この週は闇が支配する週です。まるでわたしたちの心の奥底にある闇が解放されて表に出て来たような、希望も何もかも潰える日々です。しかしその闇の底で、神さまあなたの御業が進んでいること、わたしたちにはもともと見えないのに、さらに闇によって完全に隠されてしまっているあなたの「救い」を、信じることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。