幼稚園に二鉢のビワの木がある。ひとつは小さくて花も咲かないが、もう一つは良く花が付く。12月には枝先に満開。
これが年を越して1月末頃には小さな緑色の実になる。小さな樹の枝先にはちょっと厳しいだろうという数が、徐々に淘汰される。最後には群花ひとつで1コの実が残れば御の字。期待に胸を膨らませ梅雨明けを待つのだが、昨年はちょっとだけオレンジ色に膨らんだ最後の1箇が途中から萎んで、結局1コも収穫せず。
もし、人がその実を食べることができたら100点だとしたら我が2本のビワの木は落第生。イエスは3年実らないいちじくを切り倒せと言う農園主の話しをしている。畑の管理者は「今年もこのままにしておいてください。樹の周りに肥料をやります。それでもだめだったら切り倒してください。」。我が園庭のビワの木も似たような運命を辿るのだろうか。
しかし、実を人間に食べてもらうことがこのビワの木の夢なのだろうか。小さい樹木は先ず自分自身を太らせることこそ第一命題かもしれない。満開の花を咲かせることが夢なのかもしれない。「人が食べる」ということがいつでも究極のゴールではないかも知れないのだ。
「夢は大事、きっと叶う」と人は言う。でも、一番の夢が叶った生活をしている大人は一体どれくらいいるだろうか。ほとんどいないのではないか。でも人はそんな自分と折り合いをつけて、たとえ夢破れたとしても生きている。それこそ生きる力だよ。子どもたちにはだから安易に「夢を追いかけよう」なんて言わなくて良い。彼女ら/彼らに夢がないわけなどないから。そうではなく、たとえその夢が叶わなくても、プロセスを知っている私はいつでも君の味方だし、君の応援団だよ、と言ってあげよう。
成長と共に人は夢を少しずつ失っていって、その代わりに「現実」という味も素っ気もないモノが積もって行く。だからこそ心から、いつでも「今」を肯定する応援団でいたいのだ。
2024
17Mar