ヨエル3:5c/詩編22:23−32
「シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」(ヨエル3:5c)
教会の礼拝で旧約聖書ヨエル書が読まれることはほとんどないように記憶します。唯一可能性としてあるのはペンテコステにヨエル書3章、2024年の教会主題聖句のちょっと前、3章1−2節ではないかと思います。「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」
それ以外にあまりヨエル書が取り上げられることがないのにはやはり訳があると思います。それはヨエル書自体が良くわからない書物だからです。
通常、預言書には誰の預言であるのか、いつの時代の預言であるのかが、その最初にある程度記されています。表題部分などと呼ばれます。
例えば有名なイザヤ書の表題部分はこうです。「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。」(イザヤ1:1)。これはアモツの子イザヤによるユダとエルサレムに対する預言で、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤと4代に亘る時代のことである、と表題に記されているわけです。誰のいつの時代のかが明示されています。
ところがヨエル書の表題部分はこうです。「ペトエルの子ヨエルに臨んだ主の言葉。」(ヨエル1:1)。預言者がペトエルの子ヨエルであることの他、何の情報も与えられません。
そして預言はいきなり蝗の大群による荒廃についての言葉になるのです。2章に入って漸く、この蝗の大群とは「強大で数多い民が…襲ってくる。」(2:2)ことを表しているのだとわかります。誰も耐えられない事態に、ヨエルは「だからこそ神に立ち帰れ」と言います。神はそれに応えてくださる、と。大いなる苦難を通ったあと、神はすべての人に霊を注ぎ「息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る」(3:1)日が来る。そして諸国民はイスラエルの故に神によって裁かれる。「しかし、ユダはとこしえに/エルサレムは代々にわたって/民の住むところとなる。」(4:20)これがヨエル書のあらすじです。
研究者たちは、ヨエル書がペルシャ時代にキュロスによって解放されユダに戻った人々が、王国の復興は適わないけれど第二神殿を建てて心の拠り所としたその人たちに対する預言ではないかと言います。ペルシャ時代のことはアッシリアやバビロニアの支配の頃に比べれば聖書においてはまったく参考とするべき記述がありません。そのため、結果としてヨエル書が礼拝で取り上げられることが少ないのだろうと推測します。
話を戻して、24年度の聖句として取り上げるのが3章5節です。もう一度読んでみます。「シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」。
申し上げましたように、蝗の大群が土地に生えているすべての作物を滅ぼしつくすという自然現象が、ヨエルの目を通して神の怒りの表れとして描かれます。
21世紀においても、例えば2020年にアフリカから中東・アジアの30近い国で報告があり、地球上の20%がダメージを受けるとFAO(国連食糧農業機関)が警告を発しました。凄まじい群れに膨らむようでこの時は1平方キロあたり4千万匹のサバクトビバッタが発生し、1日で3万5千人分の農作物が被害に遭ったようです。「主の怒りの日」と呼んでも決して大げさではない深刻な状況です。そしてそれに対して人間は極めて非力です。
同時期世界はコロナ禍に見舞われました。この新型ウィルスは世界中で猛威を振るい、正しい対処法を探る冷静さを人々から奪って、パンデミックだけでなくパニックまでも引き起こしました。その禍、あるいは騒ぎが過ぎ去った時、教会が受けたダメージは相当なものでした。地方教区の衰退はだいぶ前から言い続けられてきましたが、都市部においてもコロナ禍がもたらした衰退は目を疑うほどです。これはまるで、神の許しを得てサタンがヨブを苦しめるあの話みたいだと、私にはとても滑稽なマンガの世界のように見えます。
しかしヨエルは神の怒りの日が顕わになってそれをまともに受ける人々を描きながら、つまり多くの者が倒されて行くさまを描きながら、僅かの者が残されて神の霊を注がれると記すのです。ヨブ記は最後には、ヨブが苦しみを受ける前以上に快復されたと、メデタシメデタシに物語を閉めますが、ヨエルは旧に復する、あるいは旧に倍するとは書きません。残りの者は僅かなのです。でも僅かであっても、そこに確かな救いはある、逃れの場はある、と記すのです。
わたしたちは現実の苦難を数え上げることは簡単です。事実苦難に直面しているわけですから。そしてその苦難を根本から覆すには旧に倍する人数が必要だ、何よりも人が増えることだと、おそらく私の人生60数年、常にそう言われ続けてきました。だから伝道が大事だ、青年伝道が大事だ、神学生を増やそう、と。しかし、ひょっとしたらわたしたちは、数え方をまちがえてきたのかも知れません。わたしたちの目には「数」として入っていなかったことがきっとたくさんあったのです。わたしたちが認識できなかったこと、見えると言い張ってきたが実は見えていなかったこと、それこそが神の慈しみが現実に現れているところだったのではないか。「主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」(3:5)。そのことを本気で信じ、わたしたちの今いる場所を、すべての人に明け渡して進んで行きたいと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。様々なことで主の体である教会は傷つき傷んでいます。それを力を得ることによって回復しようと、その宣教の開始時代から長い間真剣に取り組まれてきました。しかしわたしたちは敗戦というわたしたちの力の外の出来事に直面させられたあとの僅かな時間を除き、その祈りや努力は神さまによって聞きあげられることはありませんでした。わたしたちには神さまあなたの御業が見えていなかったし、認識できなかったのです。いつでも神さまあなたは「私の民は大勢いる」と宣言し続けておられます。そのあなたの宣言を心から信頼することが出来るように、わたしたちの教会の新しい年の歩みを進めてゆくことを赦してください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。