サムエル上9:27−10:1,6−7/Ⅱコリント1:15−22/ヨハネ12:1−8/詩編2:1−12
「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」(ヨハネ12:7b)
「ナルドの香油」と呼ばれる今日の物語は、マルコにもマタイにも、そして少し趣を変えてルカにも収録されている物語です。多くの人に愛され、語り継がれてきた物語でもあります。讃美歌576番は1931年に発行された讃美歌以来およそ百年、この讃美歌21でも取り上げられ、今も多くの方の愛唱讃美歌となっています。それ自体がこの物語が愛されているしるしでもあると思います。例えばマルコ福音書にある通り「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マルコ14:9)とイエスご自身が弟子たちに対して語ったのですが、今多くの人がこの物語を知り、それを歌った讃美歌を愛しているということが、そのイエスの言葉を事実その通りであると証明しているのかも知れません。
ところが、今日のヨハネ福音書には、そのイエスの言葉「記念として語り伝えられるだろう」が収録されていません。それはどうしてなのか。それがヨハネ独自の物語構成の中に隠されています。
ヨハネはこの出来事がベタニアで起こったと書いています。11章です。「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。」(11:1−2)。「ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。」(11:18)とあります。1スタディオンは185メートルだそうですから、ベタニアはエルサレムから約3キロほどの場所だということです。そしてそのベタニアに、イエスの愛しておられたマルタ・マリア・ラザロの3きょうだいが住んでいた、そしてラザロは病気で、しかも死にそうになっているわけです。
このように物語が導入されているわけですが、その部分で「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。」(11:2)と、もう書かれているのです。
これがどういうわけなのか。ヨハネ福音書が書かれる頃には、「女がイエスに香油を塗った」という出来事が、もう充分に知れ渡っていたということだと思うのです。そしてみんながその出来事の意味を知っていたのでしょう。だから、他の福音書が書くように「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マルコ14:9)ということを、香油を塗る12章の物語本文に書き加える必要がなかったということだったと思います。さらにもっと大事なことは、香油を塗る物語、12章と、ラザロが死んで、イエスが生き返らせたという物語11章とは、一つながりでとても大事なことを伝えているということだと思います。
この3きょうだいはラザロが死ぬということによって引き裂かれています。兄弟のうちひとりが亡くなるのですから、その悲しみはどれ程大きかったかと思います。そんな家族の危機に瀕して、マルタとマリアの姉妹は、最後の望みをイエスにかけた。イエスにこの事情を伝えて、是非ラザロのためにベタニアに来て欲しいと頼むわけです。
イエスはその情報を知っても、あえて二日間同じ場所にとどまります。どういう意図があったのか、残念ながらわかりません。しかしその二日を経て弟子たちに向かって「もう一度、ユダヤに行こう。」(11:7)と伝えます。エルサレムでは最大のお祭りである過越祭を控えていて、それは同時にユダヤ当局がかつて捕まえ損ねたイエスを再び捕まえようと待ち構えているに違いない。ラザロの事情をつまびらかには知らない弟子たちは、ユダヤに行くことは危険だと感じて引き留める。けれどもイエスはたとえ危険だとしてもそこへ行く意志が固かったのです。「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。」(11:16)。今ユダヤへ帰ることは、死を覚悟させることだったのです。弟子でさえそのように言うほど、イエス本人にとっての危険は計り知れませんでした。
ところがイエスは、わが身の危険を知っていても、マルタ・マリア・ラザロのためにベタニアへ出向く。イエスの命懸けの決意があって、引き裂かれていた3きょうだいは再びいのちを取り戻し、一つとされたのです。
しかも、ラザロが生き返ったことを通して、イエスはさらに危険になった。祭司長たちとファリサイ派の人たちは、大いなる奇跡行為者であるイエスと、その奇跡によって生き返ったラザロと、二人とも殺してしまおうと計画を練ったのです。恐らくこの3きょうだいは、そういう事情をその肌で感じていたのでしょう。イエスがご自分のいのちをかけてベタニアに来てくれたこと、ラザロをよみがえらせてくれたこと、そしてそのことによってさらにイエスが危険にさらされることになった事実を、彼女たちはひしひしと感じていたのだと思います。
そんな緊張感の中で、マリアはイエスに油を塗った。ひょっとしたらその香油は弟ラザロに塗られるはずだったものかも知れません。それが必要なくなった、けれどもその代わりに今度はイエスが危険になった。だからその油をたとえどれ程高価であったとしても、イエスのために惜しげもなく使おう、それがマリアの思いだったのではないでしょうか。
そうであれば、この行為を金銭的な無駄遣いだと誹ることは、イエスが指摘するように物語を見誤ることになります。イエスが、死を覚悟してまでも愛するラザロのためにベタニアに救いに来るという事実。そのこと自体が、このわたしに深く関わっている。イエスはこのわたしのために死を覚悟して──そして実際に十字架で死んで──わたしを救ってくれたのですから。ではわたしは、そのイエスに何を捧げるのでしょう。そのイエスに報いるために、何を惜しげもなく使うだろうか。わたし自身を捧げること、それ以外にないのではないか。いかがでしょうか。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。ラザロのために死を覚悟して救いに行く主イエスと、その緊迫した事情を感じてイエスに香油を塗ったマリアの物語が、このわたしに深く関わることであると知らされました。マリアのようにわたしは何を捧げることが出来るでしょう。あなたに報いるために私のいのちを差し出すことが出来るでしょうか。握りしめた私の手のひらを、神さまの赦しによって開くことが出来るよう導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。