列王下6:8−17/エフェソ5:6−14/ヨハネ9:1−12/詩編18:26−35
「そして、「シロアム——『遣わされた者』という意味——の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。」(ヨハネ9:7)
秋田県の横手教会で仕事をしていた時のことです。その教会に、若い頃ベーチェット病を発症して全盲になった「能登さん」という男の人がいました。とても熱心な方で、横手教会の出張伝道での集会ではメッセージを担当しておられました。私は能登さんを車に乗せて出張伝道の街まで連れて行き、帰りは横手の隣町のご自宅まで送るのが日曜夕方の日課でした。
この彼と主任牧師と3人で、主任牧師の知り合いの陶芸作品の個展にお邪魔しました。まぁ趣味が高じて焼き物をなさる高齢のおばあさんで、ご自宅で個展を開いていたのです。で、主任牧師は能登さんの手に焼き物を持たせて触らせ、その作品を説明していました。しばらくしてお暇するという時に、そのおばあさんは主任牧師に気に入ったものを差し上げるというのです。さらに唐突に「わたくしは目の悪い人に焼き物をおすすめはしません。だって見えないし分からないのですから」と言ったのです。一瞬空気が白みました。能登さんのお顔を窺いますと、彼は表情一つ変えず、ただ焼き物を手に取っていた、そのままでした。
今日のヨハネ福音書9章を読むと決まってこの能登さんのことを思い出します。盲人が癒されるこのお話は9章全体と10章21節までを引きずる長く大きな物語です。でもその始まりはイエスと弟子たちのこんな会話からなのです。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(9:1−3)。「だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と、なかなか口に出来ないようなことを彼らは遠慮なく口にしています。相手の目が見えないということで油断でも生じたのでしょうか。
弟子たちが「この人」と呼び、そしてイエスが弟子たちに答えてすぐに泥を彼の目に塗ることが出来たわけですから、この盲人とイエス、そして弟子たちの位置関係はとても近かったことが分かります。しかも弟子たちはイエスに教えを請うように尋ねている。ということは、本人の文字通り目の前で、本人も、ひょっとしたらその周辺にいる人にも聞こえるような声で弟子たちはイエスにこう言った、ということです。そしてヨハネは、この盲人にこの場面では一言もしゃべらせないのです。そのやりとりの間どうしていたのかも、まるで関心を示しません。ということは、この弟子たちの差別的な質問が、当時問題にされるようなことではなかった、いやむしろ常識だったということを示しています。
この生まれつきの盲人は、これまでの人生で数え切れないほど同じことを聞かされ続けてきたのでしょう。それに対して反論することはもはや無駄だと知らされすぎていたのです。「またか」と。何度も何度も心の中で反論し続けてきたのではないですか。でもだれもその声を聞いてはくれなかった。癒されたあとでさえ──罪が赦され、社会に立ち戻る権利を得たとだれもが認めざるを得ない状態になってもなお──、彼の証言を聞いてはくれない。「彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。」(同27)は、そんな思いが込められた言葉なのではないかと思います。
ところがイエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と告げて、唾で土をこねてその人の目に塗ります。「そして、「シロアム——『遣わされた者』という意味——の池に行って洗いなさい」と言われた。」(7)。
生まれつきの盲人が出かけた場所は「シロアム」という名前の池でした。そしてヨハネ福音書はこの「シロアム」という言葉を「『遣わされた者』という意味」と書いたのです。
シロアムは旧約聖書の中でイザヤ書やネヘミヤ記に出て来ます。ネヘミヤ記は神殿再建を書いていますが、その中で「王の庭園にあるシェラの池の壁を、ダビデの町から下ってくる階段まで補強した。」(3:15)と記しています。この「シェラの池」がシロアムです。また、イザヤはイスラエルがアッシリアによって略奪されることを告げる文脈の中で「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒み/レツィンとレマルヤの子のゆえにくずおれる。」(8:6)と書いています。この「シロアの水」がシロアムの池を指しているのです。つまり、王宮の庭で緩やかに流れのある池だったことがわかります。
その池に盲人を遣わすのです。それはイエスがこの盲人──「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と言われてきた、少なくとも罪のもとに生まれたに決まっていると、人々にもイエスの弟子にさえも普通にそう思われていたこの盲人──を「遣わされた者」と認定した。私にはそう思えるのです。この人こそ神から「遣わされた者」だ、と。では彼を「罪人」だと断言していたわたしたちは、いったい何者なのでしょう。ここでもイエスは人々の常識にメスを入れる。常識によって安寧を得ている人々の心にメスを入れるのです。「誰が神さまから遣わされているのか、誰か神さまの代わりにその基準を決められるのか」と。そのメスは当然、このわたしにも向けられているに違いありません。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたがすべてお決めになるのです。あなたの思いを代弁できる人間はひとりもいません。しかしわたしたちは、あたかもあなたの代弁者であるかのように、人々の前で振る舞っています。その奢りを主イエスは打ち砕いてくださいました。主が示してくださったことを、心から受け入れることのできる者へと、どうぞ神さまの力でわたしを変えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。