出エジプト17:3−7/ヘブライ4:12−16/マタイ4:1−11/詩編91:1−13
「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタイ4:4)
レントに入って最初の主の日は「荒れ野の誘惑」という礼拝テーマが設定されます。日本基督教団の教会暦は最初2年サイクル、それから3年サイクルでしたが、4つの福音書をそれぞれ一年間取り上げるということを考えて今は4年サイクルが採用されました。しかし、灰の水曜日からレントに入って最初の主日に「荒れ野の誘惑」というテーマを設定すると、ヨハネ福音書には該当箇所がないので、今年はヨハネの日課の年ではあるけれども今日はマタイ福音書が取り上げられています。
イエスが洗礼を受けてすぐ荒れ野でサタンから誘惑を受けたというお話は、だからヨハネ以外の3つの福音書に取り上げられているわけです。マルコとマタイは全巻を通じてよく似ていますが、今日の話の箇所は随分違っていて、マルコはとても素っ気なく事実だけを記しています。ルカは少し視点が違います。今日の箇所で言えばイエスが洗礼を受けてすぐに誘惑を受けるのがマルコとマタイですが、ルカはその間にイエスの系図が記されています。だから、ルカ福音書を開くとイエスの洗礼の記事でひとまず前奏曲が終わって、イエスが誘惑を受けるところから本文が始まっているような感じを受けます。
中味の印象もちょっと違います。ルカは「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」(ルカ4:1−2)と書いています。「引き回され」という言い回しが受動態で書かれているのが特徴的です。マタイはどうでしょう。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」(マタイ4:1)。誘惑を受けることが既に決まっていて、その決まり事を受け入れるために霊に導かれるままに荒れ野に出向いていくのです。イエスの主体性が強く前面に出ています。勇ましささえ感じます。おそらくマタイはそういうイエスを描く必要があったのでしょう。マタイの系図はイエスがダビデ王家の出であるということを記すためにあるようなものです。マタイ福音書が綴るイエスの姿は、当然王家に相応しい人格と品格を持ち合わせていることになります。洗礼を受けて公生涯の最初に先ず悪魔と対決する。そして必ずや悪に打ち勝つメシアですから、イエスが主体的に勇ましく霊の戦いの場に赴いていこうとする、そういう姿になるのかも知れません。
しかしマタイは、それが単にイエスという人間のパーソナリティにのみ由来するとは考えていないようなのです。例えばミケランジェロという彫刻家がいますが、代表作のひとつダビデ像などは「人間の力強さや美しさの象徴」とでも呼ぶべき姿をしています。マタイはイエスをこのダビデ像のように描くことも不可能だったとは思えませんが、そうではなかったのです。
悪魔がイエスに囁きます。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(3)。40日間昼も夜も断食したあとの空腹、私などは経験したことがありませんが、空腹の極みで「石がパンになるように」という誘いをかけられたのです。この誘いに対してイエスは答えます。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(4)。人間の力強さでこの誘惑をはねつけたのではなく、「神の口から出る言葉」を頼りにする。それひとつを頼みとする。そういうイエスの姿だったのです。イエスが主体的に勇ましく霊の戦いの場に赴いてゆくその原動力は、イエスという個人の持っている腕力や精神力ではなく、「神の口から出る言葉」だったということでしょう。
信仰というのはフシギなものです。信仰を持つ前と持ったあとで私という人間はどう変わったでしょう。もちろん変わったところもあるかもしれないけれど、正直言ってそんなに変わったことなんてありません。劇的な変化なんて例えば洗礼を受けるという出来事を通しても、そんな劇的な変化には至りませんでした。信仰を得たから、どんな逆境でもひるむことなく過ごして来られたわけではありません。聖なる天蓋によって私の周囲が囲まれて、何の心配もなく過ごせてきたなんてこともありません。むしろ神さまを目の前にして自分の弱さを何度も何度も気づかされ、打ち砕かれ、悔い改めては再び誘惑を受ける。そんな繰り返しをし続けている。
契約の民であった、そして神さまの情熱の対象であったイスラエルの人たちは、エジプトから脱出するという奇跡を生きながら、でも何かあるとすぐに神さまに不平を言い、信仰がその度に揺らいでいました。わたしたちはそれを嗤えません。おんなじです。何かあれば信仰はすぐに揺らぎ、心は神さまから離れようとする、いや実際に離れる。棄てる。でも、神さまは棄てない。誘惑のさなかであっても共に生きてそれを担ってくださる。だからわたしたちは揺らぎながらも確かにされていくのです。わたしたちを確かにするもの、それこそ「神の口から出る言葉」でしょう。私の力、私の信仰、私の敬虔さ、頼るべきみなもとは私の中にはありません。でも私たちを確かに生かす「神の口から出る言葉」がある。イエスはそのことをご自身をもって示してくださったのではないでしょうか。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。しゅろの主日に飾ったあの葉っぱが枯れきってしまったように、わたしたちの思いはすぐに枯れきってしまいます。しかし神さま、あなたはそれでも私を見捨てることはなさいません。主イエスが誘惑を受けられた時、あなたの口から出る言葉によって人は生きるのだと示されました。主イエスの執り成しによって、わたしたちもまたあなたの言葉でふたたび、何度でも立ち上がる者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。