申命記8:1−6/フィリピ4:10−20/ヨハネ6:1−15/詩編95:1−11
「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた」(ヨハネ6:5)
五千人に食べ物を与えたというイエスの奇跡は、よほど知れ渡っていた奇跡物語なのでしょう。4つの福音書全部に出て来ます。聖書を読んでいて面白いのは、4つの福音書に同じ話が出てくる時がいちばんです。どうしてかというと、4つの福音書に同じ話が載っていてもそれぞれ微妙に言い回しや話の展開が違うのです。この小さな「違い」が、実は福音書記者の置かれている状況の違いだったり、思想の違いだったり、そしてもちろん書かれた時代の違いだったりするのです。そういったことを探る手がかりがたくさん詰まっているので、「4つの福音書に出てくる」というのは面白いのですね。
この話の中に「200デナリオン」という数字が出て来ます。デナリオン、古くはデナリと言っていましたが、これは通貨の単位、お金の単位です。1デナリオンがだいたい労働者一日の賃金だったと言われています。このデナリオンが、今日の箇所ではこういうふうに使われています。「フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。」(6:7)。「それでは足りない」という文脈です。
ちょっと計算してみましょうか。東京都の最低賃金で計算するとどうなるか。2023年10月から東京都の最低賃金は1,113円となりました。1デナリオンが一日の労働賃金ですから8時間働くとして8,904円。これが現代東京で言う1デナリです。これが200倍されますから1,780,800円、180万円弱となります。一方、パンは大人が食べてある程度満腹になると仮定してパン一人あたり500円分で計算すると180万円割る500円で3600人分。なるほど、確かに「男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。」(同10)で考えると、「それでは足りない」わけですね。フィリポはけっこう暗算の達人だったかも知れません。
他の福音書はどうでしょう。マタイ福音書にはお金の話はありません。マルコでは「弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。」(マルコ6:37)とあります。「大金だ」ということと「それだけあれば足りる」というニュアンスが伝わってきます。ルカでは直接金額は出て来ません。代わりに「彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」」(ルカ9:13)と書いています。イエスに向かって「まさかわたしたちに買いに行けと仰っているのですか?」という非難めいた響きが感じられます。
いずれにせよ、群衆の多さと弟子たちの非力さ、そしてそれを補うつもりであれば多額のカネが必要となるという認識は共通しています。そして「5つのパンと2匹の魚」ということが、その「多額」「多数」に対する比較として「小さな」「弱さ」の象徴のように使われるわけです。
ヨハネ福音書だけはこの「5つのパンと2匹の魚」の出所を明らかにしています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(ヨハネ6:9)。それが少年のお弁当だということが「多額」「多数」との比較を明確にしています。「何の役にも立たない」のです。
ところがイエスはそうは言いません。ただそのパンを手に取って祈り割いて分けたのです。「役に立たない」のではないことを、行動で示されたのでした。ここでイエスがわたしたちに「目を留めなさい」と示してくれていることは、どうやって少ないパンでみんながおなかいっぱいになるかという方法論ではないのです。
ではイエスは一体何に目を留めろと言っているのでしょう。驚くべきことですが、彼は「少なさこそ、分かち合いの中心だ」と言っているようなのです。
弟子にとっては男ばかり五千人の集団に対して、少年のお弁当一つはあまりにも少なすぎて数にならないのです。でもイエスは子どもの弁当対五千人の男という比較には目もくれません。そうではなくみんなのためにと差し出された少年のお弁当にだけ目を留めます。たくさんあるから分ける、いっぱい持っているから分けるのではない。むしろ、少ないからこそ分ける。小さいからこそ、弱いからこそ分け合う。そのわざを神さまが用いるのだよ、と示している。
私は地方の教会の出身で、地方教会の悩みの声の中で育ちました。では都会と呼ばれる地域にある教会は何も問題がないのか、困っていないのかと言えば決してそんなことはない。都市部の教会にだって困りごとはたくさんあります。いわば、日本の教会は問題だらけでしょう。そしていつも「もうちょっと若い人がいれば」「いやとにかくもうちょっとキリスト教人口が増えなければ」と、こればっかりは都市部も地方も関係なく同じように口にする。
でも、今日のイエスの奇跡は「そんなのカンケーねー」って言っているみたいです。無いからこそ分かち合う。弱いからこそ分かち合う。弱さこそ、分かち合いのど真ん中だと示されたのです。
「何の役にも立たない」と、いったい誰が決めるのか。それが国家の強制である場合もあるでしょう。今日「信教の自由を守る主日」に国家の強制について思いを馳せることには大きな意味があります。一方、自分で自分を「何の役にも立たない」と決めてしまうこともたくさんあります。そのために力を削がれたり、必要以上に自分を貶めてしまうこともあります。
しかし神は、そんな私をエンパワーされる。この少年はどうして自分のおべんとうを差し出すことが出来たのか。それはこの少年がエンパワーされているからです。根拠のない自信に溢れているからです。そしてわたしたち大人はそれを忘れている。私もまた神さまからつくられた、他に比べようのない極めて個別の価値を持った尊い命をいただいていることを忘れてしまうのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちが自分の価値を自分で貶めることのないように、わたしたちを力づけてください。誰かが、社会が、人の価値を強制的に決めようとする時、それに立ち向かうことの出来る仲間がいることの気づかせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。