ヨブ23:1−10/ヤコブ1:2−5/ヨハネ5:1−18/詩編32:1−7
「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。」(ヨハネ5:1)
休みの時にちょっとお出かけすると、東京のあちこちに外国人の観光客がたくさんいることを改めて知らされます。インバウンド需要がコロナ前よりも増えたというニュースも目にします。2019年に4.8兆円だったこの需要は23年には5.9兆円に達するのだそうです。
コロナ前には中国人の爆買いの様子が何度も何度もテレビなどで取り上げられました。どうも日本のマスコミが報じている中国人の買い物する姿に、ほとんど敬意を感じません。むしろその行為を侮蔑することが目的のようにさえ感じられて、そのニュースが流れる度に厭な思いにさせられました。あれだけ侮蔑的だったのに、そういった買い物客の足が遠のいた2019年以降の日本は一体どうだったのか。コロナ前は需要を当て込んだ例えばホームステイとか民泊とかが盛んに議論されていたのに、需要が戻ったはずの23年にそういった議論が復活したかといえばむしろ当て込んだところが次々に閉鎖・倒産している現実がありました。急激で長期に及ぶ円安は、詰まるところ日本という国が国際経済から買いたたかれるという現象を引き起こしているわけです。もっと素直に「買ってくれてありがとう」と言い続けていれば良かった。それでこそ「オモテナシのくに」だっただろうにと思います。尤もオモテナシの東京オリンピックも結局は汚職にまみれた旨い汁に集るまるでウジ虫たちの狂想曲で、レガシーどころではなく終わってしまいました。
訪日外国人観光客と言えば、アメリカのニューヨークタイムズ紙が「行くべき52箇所」という旅行先案内で23年には岩手県・盛岡市を世界第2位に挙げ、24年は山口県・山口市を第2位に挙げました。わたしはこのどちらにもとても深い関わりがあって、それだけにこの結果をとても驚きました。取り上げられた理由は様々に言われていますが、訪日外国人の興味関心が少しずつ変わってきているということなのかも知れません。日本を選んだ理由の第1位は「独自の文化体験」だそうです。東京や大阪や京都はそれでなくてもオーバーツーリズムの問題を抱えていて、地方のまだあまり知られていない街で独自の日本文化・地域文化に触れることを良しとする訪日外国人が、思いのほか多数いるということなのかも知れません。何がステキと思うか、何が大事と思うかが、少しずつ変わってきているのです。
今日お読みいただいた福音書はこういう言葉で始まりました。「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。」(5:1)。イエスはガリラヤからエルサレムにのぼって行かれた訳です。日本語でもぴったりの表現があります。「おのぼりさん」。都会に出かけてきた田舎者のことを揶揄する表現ですが、ガリラヤから国の中心に出てきた30歳そこらの青年を指すにはうってつけかも知れません。
だいたい「おのぼりさん」はキョロキョロと辺りを見回すものです。2千年前のガリラヤからエルサレムに出て来た田舎者のイエスはどうだったのか。彼は都会の驚くような建物や王さまのいる宮殿や驚くほど人が行き交うハイカラな市場をキョロキョロと見回していたわけではありませんでした。そうではなく「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。」(6)のでした。イエスはエルサレムというイスラエル経済とユダヤ教の中心の街で、宮殿や神殿や人々の多数行き交って賑わう市場でもなく、38年横たわっている病人を見たのです。
38年間この光景が続いてきた。この人はここに38年居続けた。多くの人がそれを知っていたのだと思います。イエスが今見ているこの風景は他の人にも同じく見えていたはずでした。しかしこの人に向かい合い、ましてや手を差し伸べ「池の中に入れてくれる人」(7)はいなかったのです。
だからイエスはその人に声をかけるのは必然的でした。「「良くなりたいか」と言われた。」(同)。これは衝撃的です。38年も苦しんで横たわっている人に向かって「良くなりたいか」、口語訳では「なおりたいのか」と聞く。直りたいに決まっている、良くなりたいに決まっているではないかとわたしなら思います。しかしよくよく考えると、私のように彼のその思いをわかっていながら、しかし彼に手を差し伸べる人は38年間ひとりもいなかった、私も含めて、ということです。衝撃的です。
38年間彼をここに居続けさせたのはそういうことでしょう。時にその人が癒されることよりも、律法の決まり事の方が優先されたりもしてきたのです。「律法だ」と言えば、人のいのちより何より優先的にまかり通る。そしてわたしたちはそういう社会をつくり保つ側の一員として、立派に歯車となってきた。いや、歯車とさせられてきたのです。そうであることで辛うじてこちら側に居続けることが出来る。あの彼のようにならずに済む。
そのわたしたちにイエスは問うているのでしょう。「良くなりたいか」「なおりたいのか」。ひょっとしたらわたしたちは、社会の歯車であることから「良くなりたい」とか「なおりたい」とかも思っていないのかも知れません。このままでいいのだ、この方が都合が良いのだ、と。しかし、それはわたしの本心でしょうか。
イエスが38年そこにいる彼に声をかけたのは、その本心が聞きたかったからではないでしょうか。たとえわかりきったことだとしても、彼の本心を、ホンネを聞く必要があった。
そのイエスが今わたしにも問うているのです。おまえが生きる意味は何か、何を見たのか、どうなりたいのか、と。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。私は何をしたいのか、何を見ているのか、どうなりたいのか、私の本心はひょっとしたら私にさえわからないのかも知れません。しかし救い主はその私の答えをずっと待っていてくださるのです。主イエスの助けを借りて、自分と向き合うことが出来ますように。時に直視できない自分と、ちゃんと向き合うことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。